むかしばなし

ケンケンのむかしばなし7 山の暮らし、農作業

山の暮らし、農作業

百姓とは農民のことらしい。百姓は農作業をする。私は農業をする家に生まれたが農作業をしろとは言われなかった。手伝いなさいと言われたことはある。田植えや稲刈りとなると親戚が遠くから集まったので賑やかだった。子供の私も何やらはしゃいだものだ。朝早くから母が握り飯やら昼ごはんの準備をして張り切って出陣していった。おじさん、おばさんも気合が入っていた。私は水田のそばで遊んでおればお利口さん、ということだった。幼稚園時代は帰って来ると我が家の田んぼの田植えは終わっていた。整然と植えられた苗を見るのは子供でも気持ちよかった。秋の稲刈りも同じである。朝の風景が夕方には田んぼが一変するのだ。我が家の田んぼは山下に5枚くらいあった。収田(しゅうでん)という谷間の奥まで続く狭い田んぼにも3~4枚あった。ここは早稲のコメともち米を植えていた。その奥まで畠があった。そこらは小作人とは言わないが親戚に畠を貸していた。その一家は祖父の異父妹が嫁いだ先だった。

農作業の話に戻る。田んぼの世話も大変だがそれでは一家7人が食べていけない。父は工場勤務だったから兼業農家という分類になると小学校になって習った。父の収入だけでは我が家の食生活は厳しい。よって畠からとれる野菜、果物で自給自足体制を目指し?辛くも確立した頃に、私は生まれたのだ、幸いなるかな。勝手に育つ?季節の山菜も重要な食糧だった。春はフキにタケノコ、これは敷地内、保有する山林から自由に採れるもの。夏はトマトにナス、やがてカボチャ。季節になるとその料理が1週間以上続く。秋のしいたけ、冬は大根料理などが我が家の定番であった。味噌も自家製。冬のおやつはサツマイモ、夕食のおかずにサツマイモ。子供のくせに「ああ、またこの季節がやってきたか」と憂鬱になった。そもそも子供の好きなおかずはない。祖父と父には毎日、夕食に刺身が出る。料理は大人中心、当然だと思っていた。現代の家庭は子供の好みに合わせすぎる。食事は働いている大人の好みで良いのだ。嫌なら子供は食べないでよろしい、くらいの気概が親には必要だろう。それでも私は腹が減っていたので、ごはんのオコゲやそれをお茶漬けにして空腹を満たしていた。

畠は田んぼの近くや家屋敷の前、前の山の畠があった。山奥にある畠は山畠(やんばたけ)。さらに収田そばの畠とあちこちにあった。その手入れは、ほぼ母が一人でやっていた。父は夕方、工場から帰ってから手伝う程度。耕運機、脱穀機、精米機などの機械を使うときは父が活躍する。それをいちいち見ていたのが私だ。畠の収穫というのは楽しいものだが、植える作業や手入れの作業は地味でつらい。畠の近くに水道があるわけではないので小川から汲んだり、井戸水を汲んだりして畠に水をやる。肥料もやる。一人では重労働であったろうが母は黙々と働いていた。「野菜や花は手入れすればちゃんと応えてくれる」らしい。私は畠に行けば蝶々を追ったり、アリの巣を見つけて攻撃したりで楽しく土遊びをしていた。帰りの一輪車に収穫がいっぱいある日は、満足した母の顔があった。

 

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