むかしばなし

ケンケンのむかしばなし8 田舎のお祭り

田舎のお祭り

田舎には共同作業、助け合い活動が残っていた。結いという言葉、絆ともつながるようだ。農作業だけでなく困ったときは無償で助け合うしくみの事らしい。頼母子(たのもし)講のそのひとつ、これは金融、融資に関連する。集落では共同で道普請、草刈、共有土地で萱や薪などを管理していたと聞く。交代で使うものは「もやい」という表現もあった。仲良く分けるとか、使い合うという精神だ。独り占めしようものなら、村八分、という雰囲気が長く残っていた。今、思い出しても不思議な祭りが3つある。4月のお大師様は弘法大師ゆかりの地域の接待だった。残る2つは秋に山の中で大歳様と人丸様の祭りが続いていたことだ。人丸様は柿本人麻呂を祀るという出雲と石見の国の由来らしい。人麻呂は和歌や、芸能で当時の文化人の先頭を行く人物だが謎も多い。多分、帰化人か鉄器などの技術集団のリーダーか、そのグループの一人と言われている。他に木工集団、傀儡子、山の民の一族の代表かもしれない。石見の国出身との伝説がある人物なので人丸神社は島根県と山口県に多い、というのが面白い。当時の有名人を祀る行事が江戸時代からか、私の実家の、そのまた山奥で密かに続いていたというのは神秘的でさえある。会合すれば酒宴となる。その行事に私は祖父と毎年参加した。私は柿本人麻呂に守られているかもしれない。

村の鎮守の神様、といえば八幡惣社であり春と秋に祭りがあった。春は河原市、渡し場のあった川の土手で市が立った。祭りには多くの出店があってにぎわったものだ。もちろんお宮からは神輿が出る、河原での奉納相撲もあった。秋は収穫祭の意味もあるのだろう、神社の境内、参道に出店があった。父も神輿を担いでいたらしいが見たことはない。私はいわゆる「じいちゃん子」だったので祖父に連れられて祭りに行った。5歳の秋祭、八幡惣社の奉納相撲に私も参加した。5人勝抜き戦に出されて同級生と一つ上の先輩達を押し出して、勝ち抜きを達成した。褒美の幟旗を担いで帰った祖父はずっと自慢話にしていた。その話を今は父が酔うと話題に出す。「そりゃじいちゃん、喜んじょったど」と言う。私はおじいちゃん孝行をしたということらしい。祖父は相撲好きだったから幼稚園時代は私に相撲を取ろう、とよく言ってきた。私はむきになって押したものだがやがて祖父が後退して負けてくれる。「強いのう」と降参する。私も気分が良かった。「もういっちょう」と祖父に「はっけよい」で挑む。「のこった、のこった」と祖父の声がする。押し相撲のみ、投げ技なし、祖父は嬉しそうであった。

街中の祭りには小学校の高学年になるまで行ったことはない。天神祭りは夏と秋の年2回。夏は花火大会があり山中からも山下からもよく見えた。祖父が納屋の屋根に茣蓙をしいて一緒に花火を見たことがある。スイカもそこで食べた。夜空に大輪の花火があがる。遅れて「ドカーン」と音がする。時々下の方だけ光が見える。「母ちゃん、ありゃ何しちょる?」「ありゃ仕掛け花火じゃ、近くに行かんとわからんよ」。シカケハナビ?これがまた私の妄想を膨らませる。一体どんな花火なのだ、見たいなあと憧れた。

 

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