くすり屋さん

くすり屋さん 四国こぼれ話3 愛媛県の思い出

くすり屋さん こぼれ話

1986年頃、会社の都合で徳島出張所香川地区担当から松山出張所香川地区担当になった。松山は会社を引退したら松山に住んでも良いなあ、と思ったほど温暖な良い街であった。

姫神の宿る国

そもそも愛と姫を合わせて愛媛という県名、その字と音がやさしい気分にさせてくれる。古事記には愛比女(えひめ)と書いてあるらしい。姫神の宿る国、という意味か。旧国名は伊予の国、県は広いのに県全体が伊予の国である。

瀬戸内沿岸に新居浜、今治、松山の街がある。伊予は東予に中予、南予と呼ばれる。南予は県の西南にあり豊後水道に接した宇和海につながる海道である。そこの宇和島市は江戸時代の初め、伊達政宗の長男がはるばる仙台から一族郎党を連れてやってきたという。幕府の命令であるし伊達氏と徳川氏の駆け引きの結果だろうが、なんと宇和島の伊達藩はそのまま明治を迎える。仙台ではすでに廃れた風習や言葉が南海の宇和島に残っているというのも面白い。(私はその後、仙台市に9年間住む、という体験をする)

松山城址

松山出張所は松山市の城山に近い勝山地区にあったので近所を歩くだけで松山城址を仰ぎ見ることができた。ここは正に戦う城であって山の上に本丸、二の丸、三の丸が連なる。築城したのは加藤嘉明氏、秀吉時代に活躍した武将である。やがて新潟県の村上へ転封となりそこでもやや小型の松山城のような村上城を造っている。ここも登城してみたが平和な時代に造った城とは思えない、実に堅固な戦う城であった。武骨な加藤氏の気概を感じる。

その後の松山は松平氏が親藩として治めて明治を迎える。当然佐幕派だったので明治政府からは冷遇される。しかし明治時代に正岡子規、秋山兄弟(陸軍、海軍の名将)など優秀な人材が早くから活躍した事実を見ると、教育文化の高い藩だったことがわかる。

松山の夜

夜の松山の繁華街は楽しかった。徳島市、高松市はおっさんの街という印象だったが、愛媛大学だけでなく松山商科大学もあるせいか若者が多く活気があった。食べ物もみな美味しく感じた。九州ラーメンの店もあって懐かしい思いがした。

市内を走る路面電車も珍しいのでよく利用した。松山市駅(伊予鉄道)という鉄道駅があり賑やかな駅前だった。残念ながら当時の国鉄駅(現在はJR四国)は街中から離れておりその駅前は寂しいものだった。

海の交通の要所

海の交通が盛んだったのも松山の特徴だろう。三津浜港からフェリーで山口県柳井港を結ぶのは防予汽船。結婚後に山口県に帰省するのに盆、正月、5月の連休にはかならず利用したものだ。高松市から三津浜港まで運転してヘトヘトになった。高速道路の無い時代だから国道11号線をひたすら西に約3時間走る。当時は出航1時間前についてビール飲んで船で寝るのが習慣だった(今はしてはいけない)。

87年には高知市に転勤となるがそこからも山越えをして松山市に入り、三津浜港に通った。これも約3時間、よくぞ無事にそれぞれ往復したものだと思う。

三津浜港からは高速艇、水中翼船、ホーバークラフトも出ていた。一度乗ってみたかったホーバークラフトで広島の宇品港に行ったことがある。飛行機のような巨大なプロペラ、ゴムのお化けのような下部のふくらみ、これは船ではない。浮いて走るので水しぶきが凄く、乗っていると景色は殆ど見えなかった。さらに騒音もひどいせいか、今は使用されていない。見た目は面白いが乗って楽しいものではなかった。

松山城は現存の天守閣
今治城も海城なり。藤堂高虎の築城
宇和島名物の鯛めし

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください