くすり屋さん

くすり屋さん 四国こぼれ話2 香川県の思い出

くすり屋さん こぼれ話

さすがUDON県

四国初上陸の地は徳島市だった。初めて住んだ町は83年6月の高松市である。私が高松に到着するとすぐ上司にうどんの「かな泉」へ連れて行かれた。

旧高松駅前のグランドホテルの近くだった。「これが讃岐うどんだ、名物釜揚げうどんだ」と自慢するG上司は徳島県人。出てきたのはゲゲゲの鬼太郎の目玉親父が入るお風呂のようなうどん桶だった。金具の小部屋に小型燃料を入れて湯が冷めないようにしてあった。

初めて食べる讃岐うどん、釜揚げうどんは、見た目は勿論、コシの強さ、ツユの旨さに驚いた。初めて訪れた高松市、讃岐の国の印象は良かったのは言うまでもない。

↑香川県はいかにも小さい。四国とは阿波、讃岐、伊予、土佐の4つの国だから。

お城の思い出

高松市には江戸時代、高松城があった。別名玉藻城と呼ばれていたそうだ。堀に海水を入れて港を監視できる日本三大水城と言われていた。

83年当時も今も天守閣は無いが明治の古写真を見ると南蛮造りの4階天守はかなり異色だったようだ。海から見える天守閣と月見櫓は讃岐の国、高松港のシンボル。船から波の向こうに見えるお城はきっと神々しかったことだろう。

城を造ったのは生駒氏だがやがて松平氏が転封してきた。四国4県の殿様は高松、松山の重要拠点は幕府の親藩だった。これがその後の県民性に大きな影響を与えた。特に高松は四国の玄関として市民のプライドが高い。我こそは四国代表、という気分らしい。

高松城址は現在、玉藻公園と呼ばれる。

 高松市内の思い出

高松市の中心はワシントンホテルと三越デパートで、待ち合わせや買い物で一番賑わっていた場所。

そこを結ぶライオン通りは狭く、屋根が低いので昼でも暗い。そのうえ前から後ろから自転車がやってくる。夜は酔っ払いが多くてけして風紀はよろしくない。飲み屋街の古馬場町にも近いからだろう。近年行ってみると屋根は高くなり明るくなっていた。しかし自転車が走って来る恐怖は変わらない。

「自転車は押してください」というアナウンスがあっても何のその、さすがだ。

20年のライオン通り、三越前まで続く

 

83年6月から医薬営業担当者として営業車で病院、医院、医薬品卸を毎日クルクル回った。初めはカローラの2ドア車。クーラー付きが嬉しかった。当時は私用車でもクーラーは珍しいものだった。エアコンが無い時代なので夏は窓を全開にして走るのが当たり前だった。1年たつとサニーに替わった。これはFF(前輪駆動)で足元が広くて運転しやすかった。どちらもマニュアルシフトだったのも、もはや懐かしい。

私の担当エリアは香川県の東半分と小豆島。高松市内の病院をまわりつつ東へ向かう。大川町、津田町、白鳥町の大病院や個人病院、開業医をまわるのが仕事だった。北に屋島を見つつ東へ向かう。やがて志度町に着くとここは平賀源内の生誕地。さらに東に行くと津田海岸、ここで泳いだこともあるが山陰の砂浜とは大違い。浜が灰色の砂利なのには閉口した。白鳥町から引田町まで行くと県境となる。香川県は小さな県(全国都道府県で一番面積が狭い県)だから高松市から11号線を東に車で約2時間走ると徳島県に入る。北は瀬戸内海、南は四国山地とわかりやすい地形である。

高松築港駅の琴電

小豆島の思い出

小豆島も担当先だったので月に1回は行った。高松港からフェリーで約1時間かかる。小豆島を東日本の人は「あずきじま」と読むが無理もない。

ここは「二十四の瞳」の舞台。丁度、田中裕子が主演する映画ロケもあって思い出多い島となった。島内は思ったよりも広い。瀬戸内の小豆島は地図では小さく見えるが、上陸すれば山あり谷あり、渓谷あり。山は寒霞渓(かんかけい)という峡谷もあって、なんとロープウェイで登るのだ。ここは猿が多いし、近くの孔雀園、オリーブ園も有名だ。

名物は小豆島素麺と醤油か。古い製法を守っているのも大したものである。寒霞渓で食べた流しそうめんは美味かった。

鬼ヶ島伝説

高松港からは女木島(めぎじま)、男木島(おぎじま)が見える。ここは鬼ヶ島伝説があった島。桃太郎は岡山からここに鬼退治に来たのだろうか?

鬼が持っていた宝物を桃太郎一味は一方的に強奪して吉備の国(岡山)に持って帰ったのだろうか?などと妄想は尽きない。

ただし高松市内にも鬼無(きなし)という地名もある。坂出には城山(きやま)という天武天皇時代と思われる遺跡もある。「きやま」は鬼の山(きのやま)、鬼の城(きのしろ)にもつながるから興味深い場所である。岡山にも鬼の城がちゃんとあるから面白い。

85年女木島沖のフェリー

 

うどん屋の思い出

うどん屋の思い出は自分の担当エリアである東讃地区では志度の「源内うどん」、「門やのうどん」、「郷屋敷」、四国村の「山田うどん」あたりが有名だった。

高松市内のあちこちにあるセルフうどんも当然安くて旨かった。うどん店ごとにあるおでんは初めて見た時は驚いた。うどん屋に必ずやおでんがある、それは讃岐うどんの定番、釜揚げうどんは注文されてから茹でるので10~15分かかる。本州のうどん屋なら茹でる間にいなり寿司かおにぎりでも食べて待つが讃岐ではおでんなのだ。おでんに辛子味噌をつけるのも初めての経験だった。私の好みは豆腐か厚揚げ、それに牛スジか天ぷらか。

高松に住んだ頃、私は20代だったのでうどんは3玉食べることができた。コツは「噛んではいけない、のどで塩味を感じろ」だそうで高松に住んで3年目の頃には体得していたように思う。「のどごしで塩味がわかるようになったら一人前」の讃岐人、らしい。

讃岐うどんの基本は釜揚げうどん

 

食の思い出

思い出の居酒屋、焼鳥屋、寿司屋は沢山あった。今も続けているのは瓦町の焼鳥屋さん「吾妻」と居酒屋「あきない」。

「吾妻や」は四国を離れたあとも何度か行ったが一人で行くから店長とゆっくり話が出来た。高松時代あんなに通って、店長とはゴルフも一緒に行った仲なのに生まれが福島とは知らなかった。私より10歳年上の無口な店長が丁寧に焼く焼き鳥が旨いのだ。福岡市内でも焼鳥屋は有名店が多かったがそれはそれ。自家製のつくねとモモ焼きは絶品である。

他にも旨い寿司屋、よく歌ったスナックパブはみんな無くなってしまった。飲食店のことを水商売、浮き草稼業とはよく言ったものだ。たまに行って、今も続いている居酒屋、うどん屋を見かけると嬉しくなってしまう。

瓦町の吾妻や、もはや老舗だ。

 

瓦町のあきない、ここも飽きない店なり。

四国での商売は香川県、そこで通用すれば全国でもうまくやれる、なんて言われて新入社員の私は赴任してきた。

1年目で仕事は覚えて親しくしてくれる人もいたが地元民から受け入れられたなと思ったのは2年を過ぎてからだろう。

香川県民の印象は大阪商人のケチさを持ちながら「損して得とれ」とまではいかない、慎重さがあったように思う。

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