くすり屋さん

くすり屋さん 四国こぼれ話1 徳島県の思い出

くすり屋さん こぼれ話

↑江戸時代、阿波の国、蜂須賀藩には淡路島も含まれていた。

1983年6月に四国の高松市に赴任した。まずは徳島市に四国の第一歩を踏んだ。徳島市や徳島県の思い出話。

徳島の思い出

当時はまだ鉄道は国鉄時代であり徳島駅は徳島城址のそばにあった。四国中の国鉄が非電化、つまり気動車の頃であり、四国内では「汽車に乗って〇〇に行く」と言えば国鉄のことだ。電車に乗る、とは例えば高松では琴平電鉄、松山と高知では路面電車のことを指す。現在では高松―松山間は電化されたが宇和島、高知、徳島へは気動車がうなりをあげて走っている。

さて徳島県の話題。83年頃、私が新入社員だったことと、住居は高松市だったのであまり徳島の観光をすることがなかったのは残念だ。出張所は徳島城址の近くにあった。城址の特徴は石垣にあり、緑泥岩ともみどり石とも言うそうだ。吉野川の上流の岩場にはゴロゴロある石だが、庭石にすると高級らしい。この石垣が「雨に濡れるといっそう明るい緑色となって美しい」という文章を読んだことがあるが正にその通りだった。

徳島城址の石垣、雨に濡れると一層美しい… 

徳島県は江戸時代、蜂須賀氏が治める城下町だった。阿波踊りは城の完成祝いに町人も武士も踊ったことが始まりとの説がある。蜂須賀氏は秀吉さん、信長さんとも親交のあった尾張の土豪集団だったと聞く。盗賊だったのでは?という説もあるほど荒くれの一族らしいがよくぞ出世したものだと思う。しかも幕末まで続いたということは代々の主君(殿様に)暗君なし、の証明かもしれない。

眉山(びざん、眉のように穏やかな山容からか)のふもとに広がる徳島市とその県域は阿波の国と呼ばれていた。「讃岐男に阿波女」と言われてきたのは「女性は美人で情が深い」、という意味だと聞いた。さてその実態 は…。残念ながら新入社員の私には徳島市の繁華街はオジさんの街に見えた。4年間福岡市で大学生活を送ったものだから徳島市の繁華街は中洲、天神に比べれば小さく感じた。カラオケもまだ8トラックの時代だからスナックに行くと年配者が演歌を歌う程度だった。

徳島駅前の阿波踊り像、「エライやっちゃ~♪」 
土讃線阿波池田駅にて

食の思い出

徳島県の食はどうだったか?名物に「たらいうどん」があるのだがうどんは香川県の方が有名。今でこそ徳島ラーメンは有名になった?と思うが当時はローカルな人気だっただろう。むしろ先輩方や上司が鰻好き、焼肉好きなので徳島市内でよく食べに行った。

後から知ったことだが鰻の養殖は徳島県、高知県では名物だったらしい。鰻をまともに外食したのは四国が初めてだろう。ついでにマツタケ、フグも初めてだった、社会人万歳!

吉野川沿いに西に遡ると半田という街がある。そこは半田素麺で有名なのだが当時はローカルな名物だった。

徳島ラーメン「人生」 
90年1月の徳島駅高徳線の終点だった 

観光の思い出

徳島県で観光したと言えば社員の有志で剣山(つるぎさん)に上ったことがある。剣、というから岩山かと思ったらなだらかな山だった。剣の由来は山頂近くに剣のような岩があることが由来らしい。

リフトが中腹から出ていたがこれに乗らずに歩くので荷物は重いしひどい目に合った。水やビールは若手と新人が持たされたのだった。しかし登ってみれば山頂付近は広くて景色も良かった。次の思い出はやはり社員旅行で徳島の奥地、祖谷の蔓橋、大歩危・小歩危に一泊旅行したことだろう。

大歩危小歩危の吉野川上流

徳島商法は独特?

徳島県生まれの人が会社に何人かいた。大阪商人、近江商人とはまた違う商売人気質があったようだ。商売、ビジネスという点では83年以降9年間四国にいたので、さらに香川県人、愛媛県人、高知県人と仕事をした。4県それぞれ違った個性があった。

まずは徳島の県民性は南海にあるせいか実にエネルギッシュだ。高知のよさこい踊りの情熱ともまた違う。阿波踊りは一糸乱れぬ連の凛とした美しさと個人技がキラリと光る、これこそが徳島の県民性ではないか。

さらに「徳島商法は独特である」、とよく上司、先輩に教えられた。徳島県民自身がそう言うのだから間違いないだろう。常識では考えられないような商売をするのも徳島県民、阿波人の気質のようだ。

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