くすり屋さん

くすり屋さん 四国奮闘編 第10章 四国終盤戦

くすり屋さん 四国奮闘編

四国「営業所」よ、さらば

高知市に住んで2年目の89年は昭和が終わり、平成時代が始まった。私の次女は平成生まれである。87年に国鉄が民営化されて四国はJR四国になったのも鉄道ファンの私としては驚くべき出来事だった。高松から高知に引っ越した88年に瀬戸大橋が出来た。宇高連絡船の後部デッキで食べたうどん、宇野駅から岡山へ行く宇野線電車の混雑や席取り合戦も懐かしい。廃止前に連絡船に乗ったら出港時に特別の紙テープ、ドラの音、「ホタルの光」が流れて泣けたものだ。プロペラ機だった高松空港がジェット機の飛べる新空港に移転して開港は89年。瀬戸大橋も新空港も私が高知へ行ってからなので、高松も便利になったものだと思った。逆に当時も希少だった国鉄連絡船に何度も乗ったし、戦後国産初の旅客機YS-11にも飽きるほど乗って大阪、東京に行ったことは私の自慢でもある。

高知に行ってから四国営業部は四国支店になったり中四国支店になったりした。高知出張所が高知営業所になったのもこの頃だろう。メンバー4人だから会議は高松や松山と合同だったり岡山で会議をしたりした。瀬戸大橋が出来て日帰りが可能となったのはいい迷惑だった。朝1番の特急南風、岡山行は6時台、帰りは最終の特急で高知に帰れば深夜12時前だった。岡山での宴会は途中で退場しつつ、また列車で飲む。泊まればよいものをと思うがそこは自由にならない時代。時には翌日社内ゴルフコンペがあって岡山の国民宿舎や温泉ホテルに泊まったことがあるが年配者の大酒飲み達には閉口したものだ。当時の大人数の宴会は大広間を使うし、女子社員はいないからやりたい放題。そういえばN社は当時から女子の営業担当はいなかった。他社の大手や外資メーカーは90年台に入ってから都会では増えたように思う。それまで医薬品の営業は男社会、いや男芸者?の集まりだった。

いざ転職か!?

高知営業所での私の不満や所内の不協和音がようやく本社にも聞こえるようになった。92年1月には本社の人事担当のKがさりげなく?四国の全体会議にやってきて私に打診した。「四国を出たいのか?」「そんなことはありません」と私はそっけなく答えたものだ。誰がひょいと来た本社の人間に四国の恥を言えるか、という気分だった。そんな軽い会話でその人事担当は「問題なし」と本社で報告したらしい。しかし高知ではさらに所内は険悪となり、私も辞めようかなと思って他社の大手メーカーの知人、大学の教授に相談をし始めた。外資メーカーより国内が良いなと思い、C社、K社にあたりをつけておいた。大学では「推薦状書くよ」と言ってくれた教授もいたが、N薬剤部長からは懇々と「お前はN社が合っているぞ、何があった?辞めないでおきなさい」と言われたのには驚いた。これまで一番よく怒られた先生だし、正月に部長室で古い期限切れビールを沢山飲んだ仲だったのでよけいに身に染みる言葉だった。

やがて私は本社に呼ばれて事情聴取され、92年6月に異動することになった。「どこに行きたい?次は都会だな」とI人事部長に言われた。この後日談は沢山あるが、「拾ってくれるならどこでも行きますよ」と返事したように思う。

2015年頃、土佐沖の航空写真
2015年福岡空港から高知空港へ行った時、飛行機はボンバルディア機だった。乗客が少ない路線なのだろう。
高知市内、龍馬の生家にて

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