くすり屋さん

くすり屋さん 四国奮闘編 第5章 松山営業所メンバーとなって

くすり屋さん 四国奮闘編

地位が人を変える?

84年に高松市にも連絡所が出来、私は会社人らしい毎日を過ごすようになった。Gリーダーは高知に異動となり高知出張所の初代所長となった。香川県のリーダーは私を嫌うM氏だったが、その変貌は大したものだった。「地位が人を変える」というのがM氏の持論であったがそれを見事に実行した。すなわちリーダ―として卸対策、計画作成、地区のイベント指揮など急にやりだしたのにはH先輩ともども驚いた。しかしながらこれまで半端な関わり方だったので勝手がわからない。そこで?私が有用だと気付くと急に態度があらたまったものだ。こののち私が異動するまで、私を重用したのは言うまでもない。

85年からは松山出張所員として毎月の会議は松山市へ通った。四国内での全体会議は真ん中にあるからと高松市内のホテルや徳島県池田町の宿泊施設に集まることがあった。みな社用に使う自家用車に分乗して集まったのだが移動中に事故を起こした社員がいた。よってその後の会議の移動はすべて公共交通機関を利用することなり、かなり不便になった。四国内は当時、まだ電化されておらずローカル線なのでどこに集まるにも時間がかかる。やがて瀬戸大橋が出来たら岡山市で中四国の全体会議、という大規模な会議が開催されるようになった。松山や高知のメンバーにとってはよけいに遠くなって迷惑な話であった。

松山市に通うことになると夜の宴会と2次会が楽しみとなった。松山は高松より、徳島より繁華街は大きくて若者たちが多い、という印象だった。食べ物も旨いし、瀬戸内の景色と穏やかな気候は「ここにずっと住んでも良い」と思わせるものがあった。市内を走る路面電車も便利だし、街中にドンと松山城があるのも気分が良い。隣町には有名な道後温泉がある。夏目漱石の「坊ちゃん」のイメージ通りの町に見えた。「ぞなもし~」という方言はさすがに聞いたことはないが松山市民はのんびりした人柄に思えた。ただし愛媛県は広い。伊予の国は東部と南部の宇和島ではまったく人気(じんき)が違うはずだが、愛媛、えひめ、愛らしい姫様という漢字と語感に私は優しい気持ちになってしまうのだ。

松山出張所メンバーだから愛媛県内の研究会、講演会などのお手伝いをすることになる。宇和島市も大きな町なのでイベントがあれば若手の私とH先輩は駆り出されることになる。高松駅から宇和島駅までの汽車旅は辛かった。特急で松山に行き急行に乗り換えて宇和島へ。当時は6時間くらいかかったように思う。有名な宇和島城を見物に行ったのはずっとあとの事で着けばすぐ仕事。翌朝はすぐ高松へ戻るので観光なしだった。松山地区のメンバーは当時6人いて2グループ制をとっていた。本社から来たという鼻もちならないM所長は1年ぐらいですぐ交代し、さばけたT所長が神戸から、さらに大阪からは豪快なN氏がやってきた。これで一気に元気な松山営業所となり成績も上がってきた。

長男、長女誕生

私事としては85年に結婚し86年に長男が生まれた。結婚後は居石マンションに1年住んだがすぐに新築の山王コーポに移った。やがて長女も生まれだが仕事も順調で土日は殆どいない状態。平日も宴会が多く、新妻には寂しい思いをさせてしまった。

90年に初めて行った宇和島城
宇和島港を俯瞰 
高松から汽車に乗って宇和島へ

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください