くすり屋さん

くすり屋さん 四国奮闘編 第8章 高知へ転勤

くすり屋さん 四国奮闘編

はじめての転勤

87年12月に高知出張所へ異動となった。当時のN社の年度は6月から始まり5月決算という古き伝統を守る会社であった。12月は下期の始めになるが世間は忘年会シーズン。高松で社内外の送別会を終えて知らない町である高知へ行くと社員も得意先も忘年会で忙しくて私はかまってもらえなかった。南国高知の夜なのに寒い気分で過ごした12月だった。こんな時期に異動するもんじゃないと思った。その頃の高知は出張所ができたばかりで、初代所長は高松で私の初めての直属上司だったG所長。高知医科大学の担当者として若手の私を引っ張った、ということらしい。「四国内の異動は営業所内の担当替えみたいなもんだ」と言われて、なるほどと思った。

高知と言えば坂本龍馬、高知城や長曾我部氏、山内氏が領主だった程度しか知らなかった。食べ物はもちろん鰹のタタキと皿鉢料理。高知市民となって驚いたのは卸さんも医者も酒好き、ゴルフ好き、遊び好きということ。冬に異動したものだからよけいに高知の澄んだ青空が眩しかった。私は太平洋側に住んだのは初めてだったが、冬ほどよく晴れるものだと知った。高知のメンバーはG所長と徳島で一緒だったA先輩がいた。さらに私の地元の後輩のYもいてこれは奇遇であった。3歳違うので中学、高校は一緒ではなかったが共通の知人がいたので嬉しかった。おとなしいタイプだったがよく2人で高知市内を飲み歩いた。

強烈なプレッシャー

高知医科大学も新設だったがすでに一期生は卒業して医師になっていた時期だった。各医局の医師は岡山大学、大阪大学などの出身が多く、香川医科大学と似ていた。外科が千葉大系列でこの医局は東京弁なのが新鮮だった。私が高知に呼ばれたのは大学の新薬採用であった。そもそも適応症の狭い新薬を採用させるのには全国でも苦労していた。私も新米だったので本社、支店のスタッフが応援してくれてなんとか半年後には採用してもらった。その間のやる事、やらされる事は多くかった。強烈なプレッシャーは今思い出しても異常だったように思う。私は半年間、各科の教授に無茶なお願いをし続けたものである。

得難い経験をしつつその頃の私は精神の平静さを保つために読書に没頭した。この頃に司馬遼太郎の時代小説を読みまくった。するべき事はしたらあとは相手のあること、これ以上は天に任すしかない、あれこれ考えても仕方ないという気分になった。これはその後の私の共通意識となった。少々の困難があってもあの高知時代を思い出せば、それよりはマシ、ということで乗り越えることができた。長く会社人をしていると高知時代以上の難局もあったが、それでも辞めずにいたということは四国時代の経験も大きい。

入社して5年目、大学病院担当者となるのは医薬営業としては目指すべきところである。担当したくても出来ない人も多かった時代に私はなりゆきで担当になった。高知に行っても大学病院、その他の大病院でもまず怒られてからの始まりが多かった。叱ってくれる得意先ほどその後はよく受け入れてもらった。「お前んとこは」と言ってくれる教授ほどその後、色々と親身になってくれた。怒られてからのご縁は実に大切なことなのだ。

88年頃に初めて行った高知城
90年1月朝の高知駅。これで岡山へ行って会議。そして日帰りが多かった。 
近年の新しい高知駅は高架駅となった。

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