くすり屋さん

くすり屋さん ヨコハマ時代前半⑤ 新薬が出る、横浜で実力発揮か?

真価

新制横浜営業所の真価が問われることになった。前立腺がんの薬、世界ではすでに標準薬であり、日本ではN社が初めて発売する画期的な新薬だった。

横浜という大市場、当時は都市としては東京23区、大阪市と第三位の人口だった横浜市は、やがて大阪市の人口を抜いた。さらに横浜営業所メンバーは個性派ぞろい、他社経験の中途採用者と2~3年医薬業界で経験した若い衆がそろっていた。

優秀なK支店長、パワハラU所長がいて、さらにベテランのA氏が東京からグループ長として赴任してきた。以前は横浜で仕事をしていた口八丁(手八丁とは言えない)のタイプだったが若手はよく従った。

今はなぜかしなくなったが会議室では手書きのターゲット先一覧が掲示されて採用、納入のシールを貼っていた。さらに個人の売り上げが毎週プラスされていった。まだ若手のプロモーター役が毎週、マジックペンで書き込んでいた。

所長は毎朝一発、二発と怒鳴っていた。「売ってこい」「売れるまで帰ってくるな」と。四国時代も似たようなことはあったが横浜は人数が多い、若手が多いせいか、よけい営業所らしく、活気があった。医薬品といえども当時は、売ってなんぼ、売れてなんぼの世界だった。

私もリーダーとして大口先の採用、納入はさっさと決めて余裕をこいていた。一所員のメンバーならそれで良いがリーダーはそうはいかない、苦戦先の同行、卸さんへの協力要請の日々だった。

検証の使命

さらに大学担当者は新薬の採用をすれば良いというものではない。貴重な1例1例は発売初期のデータとして重要である。それを集積して海外データ、国内データと比較して再現性があるのか、新たな副作用はないのか、検証していく使命がある。

手順通り私は横浜の泌尿器科グループの先生方に臨床研究テーマを提案して採択された。神奈川県にある大学病院の本院、分院を集めた(7つの大学病院)で共同研究を組んだ。

すべての実施要綱案、症例記録用紙案を「お前が作れ」とK支店長と鬼のように厳しい東京学術部のA部長に命令された。これには弱った。今ならあれこれネットで調べればひな形(テンプレート)があるものだが何もない。

注射薬の試験計画書を参考に内服剤の試験計画書と症例登録標、調査票の案を作成した。まだワードもエクセルも使えない時代だったが、よくやれたものだ。

名を残さずとも

こうなると個人の数字もグループの数字も気にしている場合ではなかった。臨床研究に参加する施設は自動的に当社品が採用となり、処方は増えて泌尿器科医師の使用経験が増える。

その研究会(集会)があれば教授、部長クラスと本社スタッフが集合して科学的な情報交換をしてもらった。それを陰ながら仕切る、演出するのは私だった。

国内で有名な先生方に相談、根回ししてその通りに発言をしてもらう。参加者の先生方も満足して帰っていただける。さらに実臨床で対象となる症例があれば当社品を処方してもらえる。医療関係者、患者にも喜ばれる。

しかもそのデータは蓄積されて、やがて学会発表されるのだ。

当然、論文化されて…私の名前は載らなくても横浜の先生方に「N社に〇〇あり」と私の名前は永遠に記憶に残るのだ。

こんな嬉しいことはない。

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