くすり屋さん

くすり屋さん 四国奮闘編 第7章 プロパーさんと呼ばれる仕事

くすり屋さん 四国奮闘編

プロパーさんと呼ばれる仕事とは?

製薬メーカーが販売する医療用医薬品、その営業は薬価制度、国民皆保険制度などによる保護と制限、さらに大きな責任が課されていた。つまり生命関連商品である医薬品はより良い製品の開発と安定供給が求められる。八百屋の野菜、量販店の電気製品を売ることとの違いがここにある。しかし良い製品を作れば良いというものでもない、勝手に売り上げが上がる、というものではない。当時N社が発売した抗がん剤の注射剤は副作用も強いのでメーカーには適正な使用法、患者の選択等、膨大な情報提供を求められる。それに応えるのが医薬品の営業マン、プロパーの仕事である(今はMRと呼ぶ)。

毎日、医薬品の卸さんと情報交換をする。医薬品の卸売り業者は大手メーカーから中小メーカーの医薬品を扱って病院、医院から注文があればその医薬品を届ける。卸さんはディーラーとも言うがメーカーとディーラーはどちらが上、と言うことはない。役割分担として同等な立場であると私は早くから理解した。むしろ大手メーカーではないN社の私を信頼してくれる卸の担当者に感謝した。現場の担当者同士、気が合う、応援したくなる、というのは一対一の人間性の問題となるのだ。その分、私も素直に誠実に応対し、頼まれればすぐに行動したことが得意先での好評となり、卸さんとの信頼強化にも繋がった。

ゴルフに野球にバレーボールも

高松市内と香川県の東側の大川郡、それに小豆島を4年担当した。毎月ゴルフコンペが病院や卸さんで開催されるので、よく参加しては景品にありついた。調子よく上手くなって入社3年目のゴルフは1ラウンド80台が2回出た。おかげで接待ゴルフ、社内ゴルフは30代後半まで続けることができた。学生時代からゴルフに憧れていたので入社後は夢中になった時期もあるが、中年になる前に「私には合わない」と判断した。

軟式野球もやってみたかったので高松で試合に初参加した時は感激した。製薬メーカーチームには野球経験者のピッチャーがいた。キャッチャーが誰もいない時は若いからと私がさせられた。さすがにこれは怖かった。ナイターも初めて参加して嬉しかった。なるほど夜の外野フライは取りにくかった。普通に追うと球が二重に見えた。忍者走りが必要だったのだ。ツツツ

Gリーダーのアドバイスで卸のバレー部に参加した。高校までの経験者ということで重宝がられた。地元の企業グループによる大会があったのですぐレギュラーに入れてもらった。40歳以上と女性1人が入る条件の9人制バレーボールだった。私は中堅からのアタック担当、ネットは低めだった。しかし9人制はコートが広いので少々雑に打ってもアウトにならないが打っても、打っても拾われてボールが戻ってくる。アタッカーは他に2人いたが、なかなか決まらない、点が取れないのには戸惑った。時には6人制の企業リーグ戦の助っ人に呼ばれることもあった。これは真剣勝負、体重が増える前は、「これこそバレーだ」という快感を短期間ながら味わった。高校生時代のジャンプ力が戻ったらよい感じでアタックできた。でも調子こいていると3年目には腰を痛めてしまった。肥満だけが原因ではない。大学2年生の時にバイク事故をしたが、その時の後遺症もあったらしい。

83年に初めて食べた讃岐うどんは「かな泉」の釜揚げうどんだった。今はもう無い。
結婚後、勅使町に住んだ時は近くに「さぬき麺業」があった。うどんが茹であがるまでおでんを食べたものだ。 
松山駅では名物じゃこ天うどん。

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