くすり屋さん

くすり屋さん 四国奮闘編 第4章 徳島出張所から松山出張所へ

くすり屋さん 四国奮闘編

高松に住んで1年たった頃

高松市に住んで1年たった頃。仕事も慣れて社内でも卸さんでもまあ順調かな、と思っているとM氏からは意地悪されて悔しい思いもしていた。徳島市には毎月の会議、医師の研究会があるのでよく通った。当時の会議はホテルの会議室で昼前から夜まで続くので実に長かった。タバコがモクモクの会議、今さらながら不健康であったと思う。夜は必ず宴会して二次会はカラオケスナック。帰りはラーメン食べてホテルに戻る。徳島の厚生年金会館の宿泊は4人で雑魚寝だった。これが安上がりだから仕方ない。Gリーダーは飲めないが遅くまで麻雀、私はH先輩と徳島メンバーのA氏、同期のSらと2次会に行っていた。徳島ラーメンは当時から麺の上に甘い肉と生卵が乗っていてこれには驚いた。締めに食べるには重いラーメンだった。

高松では県内どこでも名物の讃岐うどんがあったのでよく食べた。朝と昼、または夜にと一日2回でも平気だったが、当初はコシが強いのにとまどった。福岡や山口のやわいうどんに慣れていたから無理もない。それでも本場の釜揚げうどんの旨さは絶品であった。そのぶん蕎麦屋の名店が少なかったように思う。ラーメン専門店もあまり見なかった、コンビニもまだ地元系しかなくてローソンが四国に初上陸した時はTVニュースになった時代だ。

N社の歴史の転換期

くすり屋としての仕事は主に大きな病院を回りその医局、薬局に訪問して自社品を宣伝することだった。新薬を紹介して採用してもらう、沢山処方してもらうことが営業の仕事だがそう簡単にはいかない。しかしN社としては画期的な抗がん剤と心不全の治療薬が発売されたのでやりがいがあった。N社の歴史としてはこの2つの新薬発売以前とそれ以後のプロパー(医薬営業マン)は全然違うと外部から指摘されたくらいだ。私たちの世代以降は集中した研修を受けて医療現場で活躍しまくったのだ。幸い私は口がたつので大病院、大学病院でも説明会をしておおむね好評だった。Gリーダーも褒めてくれたので自信になった。これでなんとかやれるかなと。競合品メーカーとも勝ったし、そうなると卸さんも私を大事にしてくれるようになった。やはり結果は大事、有言実行ということなのだと感じた。

しかし営業は嫌なことも多かった。そのひとつに条件付き商売、キャッシュバック、添付販売などがまだ残っており、その後始末や、段々に適正な納入価格に是正したりする交渉は苦手であった。ケツまくって「もうできません、いやなら当社品を買わなくてけっこう」という気分だったがそうもいかない。昔ながらの商い慣習というものは相手もあるしそう簡単には変えられないもの。それでも四国4県の中では香川県がいち早く片付いてきたのには私も安どした。ところが松山出張所が苦労していた。市場も大きいので松山の低迷は四国全体に影響する。とうとう四国の営業部長は徳島出張所の香川地区を好調だからと松山出張所にくっつける、という奇手に出た。なんとか松山出張所の落ち込みを香川地区によって薄めようという魂胆だった。馬鹿な話だが、おかげで香川地区の4人は会議のため、イベントの手伝いの度に愛媛県へ行くことになった。会社組織とは一体なんだろうか。

91年に初めて行った松山城
必ず寄りたい道後温泉
復活した坊ちゃん列車、まだ乗っていない

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