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くすり屋さん 四国こぼれ話6 出会った人々(高知編)

くすり屋さん こぼれ話

高知で出会ったお医者さん、薬剤師さんほか

入社5年目ともなると仕事も出会う人もかなりレベルアップしてくる。高知医科大学の教授連、県立病院の院長や部長クラス。それぞれの大病院には厳しい薬剤部長がそろっていた。そうは言っても怖いもの知らずを装って、好奇心いっぱいの私はあれこれ聞いては教えてもらっていた。怒られたら「どうしたら良いでしょうか?」としおらしくすると皆さん親身になってくれたものだ。教授から見れば私は20代だから息子のような歳だろうけど婦人科のS教授は一段と厳しかった。聞けば手術室では鬼になるとのことだった。出入り禁止になったプロパーも何人かいたそうだからいつも緊張した。それでもご縁があって何かとお願いしたり依頼されたり、それを丁寧に対応していくと信頼は得られるものだ。さすが教授は人間通な人が多かった。

O助教授はゴルフ好きな気さくな先生だった。イラストの才能もあるけれども抗がん剤の情報は苦手だったようで私をよく使ってくれた。高知を離れてからも学会で再会すると喜んでくれた。基礎研究のF教授も忘れられない。免疫学の大家であったが若僧の私をよく活用してくれた。「君はよくアンテナをはっているから話が面白い」と話し上手なF教授から褒められると嬉しかったものだ。口腔外科のO教授から箸の持ち方、歩き方から日頃の態度まで指導を受けた。O教授は医局員に対しても我々プロパーにも同様に愛情をもって指導していただいたと思う。厳しい血液科のM教授とT助教授も、忘れられないし、急に怒り出す放射線科のM教授にも驚いたものだ。虫の居所がわるかったようだ。当社の前に面談したメーカーが怒らせた場合は次のメーカーにも怒鳴る、というのはよくある話。

泌尿器は抗がん剤のご縁が濃い科であり研究会、講演会のイベントも多かった。当然、教授以下とは自然と懇意となる。当時は会食、というよりは気楽に「接待、接待」と言っていた。「たまには接待されたいよ」とぼやいたものだ。大学に各医局でいろんあ行事もあったが2年も担当すると医局長からお呼びがかかる。大手メーカーに交じって中堅N社の私がお手伝いできる、ご指名を受けるのは名誉なことであった。大手メーカー、外資系メーカーのプロパーからも一目置かれるようになる。他社から「やり手だな」と言われるようになれば一人前だろう。

県立病院でも優秀かつユニークな部長先生とよく付き合った。呼吸器のM部長は厳しい人だったが熱心な研究家でもあった。廊下に居並ぶ大手メーカー、外資メーカーの中で「K
さん」と指名を受けて何かと頼まれごとをある時は誇らしく思ったものだ。肺がんの研究会、今後の学会の手伝い、文献の依頼などもあって私も勉強させてもらった。片やC副院長は外科だったがかなり無茶な生活をされていた。毎晩のように飲んだり、徹夜で麻雀したり泊りがけのゴルフ旅行など、私は少しご一緒しただけだったがそのタフさは驚いた。明け方まで飲んで朝からの手術に入る、などは信じられなかった。私の方がよっぽどヘロヘロの朝を迎えていた。そんな日は仕事にならない。

高知で出会った医師、薬剤師、卸さんほか

K市立病院の呼吸器科のN部長は、初めは話も聞いてもらえなかった。これも新薬のご縁から段々に親しくなって、半年もすれば向こうから「今日はなんだ?」と聞いてくれるようになった。こんなプロセスは今後も何度か経験するが、これは快感になってくる。初対面はうまくいなかくても段々仲良くなる、これは50歳、60歳になっても同じだ。何度か面談すると向こうも緊張が取れてくるのだろう。医師も意外にシャイなタイプが多いのだ。私も自然体で接していくことを新人時代から心がけているが、20代に出会った怖かった先生が実はそうでもなかったとか、または段々優しくなる、という経験は私の財産だ。

薬剤師さんでは県立病院のT副部長(女性)も忘れられない。抗がん剤の窓口でもあったからよく話し込んだ。ある時、期末の数字が足りないので所員4人でそれぞれ頼めるところは多めに購入してもらおうと決めたことがあった。私は日ごろそんな、みっとも無いこと出来るか、という思いだった。それでも卸さんに来月初め分を「お願い」と頼んだことはある。しかし県立病院に積み込みなんてとんでもない、という気分だった。ところがその時は深刻な事情があったのだろう。恐る恐るT副部長にお伺いすると「なんだそんな事、N社さんとしては珍しいね、えーよ。S社なんかは毎月のように頼みに来るわ、20日を過ぎるとそろそろ電話があるかと思うくらい」と軽く了承してもらった。私は感謝したものの、こんな積み込みなんて、自転車操業は続けてはいけない、と自分を戒めたものだ。

その後、高知を転勤してからの余談。横浜の大病院の薬剤師と月末の積み込み依頼が話題になったことがある。Y部長曰く「数年前は毎月20日過ぎると頼みにくるメーカーが何社かいたよ、しかし毎回はできんよ」と。私はすかさず「まさかその中にS社は」「おう、そこは毎月のようだった、数字(売り上げ)に厳しい会社だったからな」と苦笑いし合ったことがある。おまけに「そういやあんたは頼まんな」とニヤリとされたので「そんな付け焼刃は嫌いです」と返したものだ。これは私が四国時代に体験した「数字崇拝主義は社会の悪、会社正義は優先しない」があったからで、その後の私の営業スタンスになった。「武士は食わねど高楊枝」という感じだろう。私は武士の子孫ではないが…。

私の高知時代は20代最後の4年半。人生で一番飲んで騒いでいた頃なので医療関係者、卸さんとは酒を通じて仲良くなった人が多かった。元々私は商売っ気が少ない、下手な駆け引きはしない。ご縁があった得意先で懇意となったら身分不相応に無私の心で対応をしたものだ。「なんであんたN社なんか、買うものがないな」と言ってくれる病院事務長もいた。卸のベテラン課長からも「お前のえーようにしちゃるき、心配いらん」と言われてよく可愛がられた。常連となった居酒屋、スナックでもそこのおかみさんやママさんから沢山のアドバイスをもらった。これには感謝しかない。社内での不満は沢山あったが、ともかく高知の得意先、卸さん、夜の街は私を受け入れてくれたように思う。高知の4年半は栄枯盛衰、天国と地獄を見たというのは大げさだろうか?およそ、一喜三憂くらいだったかと思う。

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