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高知から横浜へ
92年6月末、高知空港から家族で羽田空港へ飛んだ。私にとって傷心のフライトだったのは間違いない。会社を辞めるか、もう一度出直すか。拾ってくれた横浜の上司K氏は奇遇にも地元の先輩だったのもありがたいご縁だった。
ただし私は山口、福岡と過ごしてN社へ入社して9年間は四国しか知らない私がヨコハマという大都会でやっていけるのか不安でいっぱいだった。「私は田舎者」というコンプレックスがあるのは否めない。なんとかなるさ、と思う以上に東京、横浜で仕事をする、ということの重圧は今も覚えている。新天地で心機一転、という明るい気分ではなかった。
生きるか死ぬか
四国での9年間は新入社員から中堅社員までの奮闘編、というのにふさわしいと思う。では今後の横浜時代8年間はどう呼ぶか。
中堅社員からベテラン、管理職になるまでの期間はなんと表現すれば良いか。生きるか死ぬか、はオーバーにしても四国時代とはレベルの違う競争社会だった。敵は社外にあらず、正に社内での生存競争であった。何人が辞めて誰が残ったのか。
横浜にいる時は渦中にいたのでそんなに深刻な状況とは思わなかったが、離れてみて、振り返ってみて「これは相当に異常な世界だった」と言わざるを得ない。
横浜のチベット?二俣川
住居は横浜市旭区二俣川のマンションに決めた。丘の途中で駐車場は離れているし家賃は高いし建物も古いが文句は言えない。広さと家族の便利さで選んだ。
何かと暮らしにくい間取りの部屋だったがそれでも相鉄線の二俣川駅や買い物、幼稚園、小学校も近くて良い環境だった、横浜市とは言えど、ここは西の外れで正に都会の中の田舎だったし、冬には雪も積もった。
二俣川は「横浜のチベット」と後から聞いて、なるほどと納得したものだ。
新体制
横浜営業所は新横浜駅前にあった。ここも社内の組織変更の真っ只中。大病院、大学病院ばかりを回るエリート集団の営業所を作る、というコンセプトで試験的に病院専門の営業所が出来たばかりだった。
これまでどおりの組織である横浜営業所と病院横浜営業所。このあと東京、名古屋、大阪でも同様な病院営業所が出来てくる。そのメンバーに私が選ばれた。新所長のK氏、直属のUチームリーダー。さらにベテランのN氏や同期のT氏などかなりの個性派、実力派が集まっていた。各地のエース級、4番バッターとも言える。
私も四国の金太郎?的に活躍が期待されていた。しかも高知出身だと思われていたと後から知って笑ってしまった。そんな豪快な酒飲みではないはずだが。
ヨコハマ物語の始まり
新制、病院横浜営業所は8人、女性事務員一人。さらに横浜営業所8名に女性事務員一人、そして神奈川営業部長に新任のK部長。同じフロアに19人もいるという四国時代からは信じられない、大会社のような営業所だった。これこそが私の求めていた会社らしい事務所の雰囲気だった。
慣れない大都会での営業は慢性的な大渋滞、首都高速や横浜新道、横須賀横浜道路、保土ヶ谷バイパス。目がまわるような運転の毎日だった。
会話が四国では関西弁だった卸さん、医療担当者が横浜では東京弁になった。社内の会話も「~じゃん」とか「~それでさあ、あれがさぁ」だらけ。私のヨコハマ物語の始まりであった。