はじめに
現在は2020年である。山陰本線をデゴイチが走っていた1970年代は50年近く前になる。私がデゴイチを追った記録と、現在までに懐かしい駅に行く機会もあったので、それらも併せて思い出やら感想を述べておきたいと思う。当時の機関士、機関区職員は蒸気機関車のことは親しみをこめて「カマ」と呼んでいた。ボイラーを焚いて湯を沸かして走るから罐(かま)である。私も仲間とそう呼んで通ぶったものである。
下関(しものせき)
デゴイチ時代の駅舎は焼けてしまった。外観は記憶に乏しいが、駅舎内は広かった、天井が高いのでよけいに空間的に大きな駅、という印象があった。ホームは高架になっていたので下関の街並みも見えた。山陽本線の電車、特急が行きかう中を山陰本線のデゴイチ客車、ディーゼル列車もやってくる。1970年代の山陰本線でもディーゼル機関車が目立つようになっていた。DF50いう赤い機関車だ。デゴイチ客車の到着するお隣のホームからデゴイチ客車の発車、これは毎回ながら迫力があった。近代的な電車、電気機関車が居並ぶ中、汽笛一声、モクモクと黒煙が上がる、真っ白なドレンを吐いてゆっくりブラスト音を響かせての発車。煙の匂い、白色の蒸気、轟音を立てて動き出す、これは他の列車ではありえない。下関のビル街に汽笛とドラフト音を反響させて、遠ざかる列車を私はいくつも見送った。それも1974年末で見納めとなった。
機関車や客車のたまり場、下関運転所は海側にホームから下がった平地にあった。そこは寝台特急を牽引してきた数両のEF65、EF58がヘッドマークも誇らしげに休んでいた。そこにデゴイチも一緒に出番を待機している様子は実に壮観であった。巨大な給炭塔、給水塔など蒸気機関車が盛んだった機関区時代の象徴がまだ残っていた。奥には転車台もあったが既に扇形の車庫はなかったようだ。
現在の下関駅はかなり変化した。九州からの電車、山陽本線の電車は頻繁に発着するもののホームのうどん屋が無くなったのは残念だ。改札内にも無いので駅のうどんを食べるには改札を出ることになる。エキナカ、駅前を歩いてもかつてのにぎわいは無い。映画館、デパート、食堂街など山口県一番の繁華街だった面影を見つけるのは難しい。時の流れは地方都市ほど厳しい現実がある。