むかしばなし

ケンケンのむかしばなし10 山には水がない

山には水がない

我が家に水道が開通したのは私が生まれる4年前。山上に井戸はなかった。水は山下の井戸まで汲みに行っていたという。父が養子としてきた4歳の頃は水汲みが一番の重労働だった。母が嫁に来たときもまだ水道はない。水道が通る、が結婚の条件だったとも聞いた。我が家は昔から大きな屋敷があったらしいが水が不便では空き家となるのは無理もない。現在の場所には明治の終わりごろ住み着いたらしい。「前は酒でも造っていたのでは?」と親戚のおじさんが言ったことがある。あちこちに大きな甕や小さな壺がたくさんあったからだが、それは無いだろう。水がないのに酒も味噌も醤油も作るには手間がかかる。飲み水や畠などに使うための水貯めの壺だろう。風呂好きの祖父など自分で水を山上に運んでいたのだろうか。足腰は鍛えられるはずだ。昭和31年に水道が通る頃でも山上に車は上がれない。勇気ある軽トラの運転手がたまにギリギリで上がってきた。山上に荷物を上げる手段は戦前、馬だったらしい。私は実家で馬を見たことがないがすでにリヤカー、一輪車が主役だった。やがて耕運機とそれに連結したトレーラーが登場する。父は私が高校生まで車の免許はなかった。私が幼稚園の頃、ようやく父がバイクの免許をとった。今でいうビジネスバイクに乗って帰ってきた日を覚えている。ピカピカの単車、父は嬉しそうだった。しかしバイクが運べる荷物はたかが知れている。

山上に素焼きの須恵器のような壺がたくさんあったのは私にとっては当たり前の風景であった。しかし初めての来訪者、大人が見れば、これは何だ、ということになるらしい。江戸時代は大げさにしても明治、大正ごろの壺がゴロゴロしているということになる。人が入るほどの大きな甕は珍品となる。我が一族は明治時代に広島の離島から移ってきたという。初めはもう少し南の山中に住んでいたらしいがこの空き家を見つけて移り住んだらしい。祖父がまだ子供だった頃の一家の写真がある。そんなたかだか3代前の様子がもはやわからない。父は養子だったが父の実家、つまり私の実の祖父にあたる人も前半生もよくわからない。北九州の海辺から流れてきて近くの有力者(元武家、家老級)の家の下男として住み込んだ。手先が器用だったから可愛がられたようで主人が後見人となって嫁(私の義理の祖父の妹)をもらったという。伝える話がないのか、過去や由来は言いたくなかったのか、単に無口な祖父、そんな時代だったのか。代々続く家もあれば、ちょっと前の江戸時代にどこにいたのかわからない。一般庶民とはそういうものなのだろう。わが一族もしかり。

その後、大事な井戸は私が物心ついたときは「井戸小屋」と呼ばれ井戸水は使用されていなかった。農作業の道具置き場、自転車置き場になっていた。20年後は自動車の駐車場となった。井戸には電動ポンプをつけて車の洗車ができるようになって重宝した。しかし再び、今は使用していない。お世話になった井戸を安易に埋めたり潰したりしてはいけない。大事にしないと祟りがある。

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