くすり屋さん

くすり屋さん ヨコハマ時代後半⑨ 栄光の横浜、その終焉

栄光の横浜、その終焉

横浜の組織変更、事務所の移転、女子事務員の退社、若手MRの異動。数年も横浜にいれば人の流れ、会社の変化は明らかだった。一人、二人と若手が退社した。地方からはベテランMRが異動してきた。これが困った先輩たちだった。口はたつが足が動かない、パソコンが苦手、日報も精算も遅い、または出来ない。私は営業所のグループ長になっていたが、これには弱った。私は次世代の「革新型リーダーの養成コース」に入って管理職を目指していた。私の子供たちはみんな小学生、ここで踏ん張らねばならない時期(98年頃)だった。

予想通り横浜営業所の売り上げはバブルのように弾けて成績は低迷した。ワンマンU所長の本領発揮だが、もはや若手は委縮、中堅は反発、ベテランは仕事せずで機能しない営業所になっていた。私はもう一人のグループ長と共同してU所長の上司、S支店長に惨状を訴えた。なんと始めは我々の訴えを否定されたが支店長もそれとなく調査して確認してもらった。よってU所長は穏便に本社へ異動してもらうことになった。やれやれ少しはこれで落ち着いて社外の仕事ができると思いきや、また個性の強い上司が赴任してきた。それはS所長、私は旧知だったがいわゆる根性論、浪花節の毎日では若手MRは賛同しない。私はその間に入って調整役となり、社内の仕事が減るどころかむしろ増えてしまった。

当時は本社、支社でのプロジェクトチームがいくつもあった。一種の流行りだが私も複数のチームに選ばれたので頻繁に本社、支社に出向いた。横浜に来た頃、支店(後に東京支社)は神田にあったからまだ近かった。しかし家賃が高いので神田からなんと目白に移った。横浜からは山手線の反対側になったので通うのが大変になった。本社は飯田橋近くの富士見町、ここの方がまだ近かった。研究会、学会、本社や支社の会議には私は殆ど参加したので、また四国時代のように「横浜の〇〇」と多くの社員に記憶されることになった。数年後に部下の一人から「横浜時代の〇〇さんはいつも若手のMRを連れてカッコ良かったですよ」と言われた。似たようなこと他の人からも言われたことがあるが、当時の私はかなりしんどい思いをしていた。高知時代の後半と似たような状態であった。

新しいS所長が頑張るほど本社に行った前所長との間が険悪になってきた。どうにも個性派同士はぶつかるのだ。先に本社に行っていた前支店長も本社内ではあちこちで不興であることが伝わってきた。やがて本社の2人はそれぞれ喧嘩して退社していくのだが、その前にS所長は早くも1年で懲罰人事?となり去っていった。本社の指示に従わないからだと聞いたが理不尽なことであった。

私の8年間で上司の所長は5人変わったことになる。2年足らずで営業所方針が変わるのだ。新薬が出続けるなら悪い案件は薄まるものだが後半4年間は新薬が無く、横浜も全社も苦戦した時期であった。外資系や国内メーカーの統廃合、合併吸収も多かったのでN社もそんな噂が聞こえてきた。他社へ変わる若手MRも増えてきた。沈む船から脱出する者、そのまま残る者、同じように勇気がいることだと思った。

90年代の懐かしの寝台特急電車

横浜駅の寝台特急瀬戸
寝台特急出雲到着 
西横浜付近の寝台特急富

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