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イスラエルのエルサレムへ
89年6月、N社は新薬のイベントとして国際学会でシンポジウムを開催することになった。私は高知に住んで3年目だったがイベントの手伝いということでイスラエルのエルサレムに行った。シンポジウムで発表する医師数名と社員でツアーを組んで1週間、観光あり、学会参加ありの体験をした。前年に高知医大に新薬を採用し順調に伸長したこと、基礎研究の成果も含めて「ご褒美」の意味もあったが、大阪支店のスタッフから推薦があったと聞いた。当時の記録をみると成田空港からブリティッシュエアラインに乗ってイギリスのヒースロー空港へ。エールフランスに乗り換えてイスラエルのテルアビブ空港に到着した。
イスラエルの首都エルサレムはユダヤ、イスラム、キリストの三大宗教の聖地だがその名所を巡りながらエルサレム市街に入った。国際学会には2日間参加して、市内観光も終えてエルアル(イスラエル)航空でフランスのドゴール空港へ。パリでは半日ほど市内観光をした。バスでの市内一周、エッフェル塔、ルーブル美術館、凱旋門を訪問。夜の会食も楽しかったことを覚えている。帰国は再びドゴール空港から一旦モスクワ空港に飛んで乗り換え。当時はまだソ連だったが空港内のみを含むとイギリス、イスラエル、フランスと4カ国目の外国だった。長旅を終えて、そろそろ「ワシもくすり屋としていい感じになってきたかな」と思ったが、これはとんでもない慢心であった。
苦労1 会社の正義は社会の正義に非ず
まず一つ目の不運。ようやく採用された新薬は適応外で使用されていたが、やがて厳格化され処方出来なくなった。全国でも最後に使用され始めたのに、すぐに大らかな時代は終わってしまった。良い成績のうちに転勤したG所長、その上のお偉いさん方はさっさと昇進して去っていき、残っていたのは現場の担当者と新人のみ。私が一番事情を知っている、ということで担当施設ではない高知県東部、西部の基幹病院に謝罪に行った。ようやく県内の主要施設、卸さんからのクレームも収まったのは半年後だっただろう。得意先に(私の)誠意は通じたが私は会社に不信感を持った。会社の正義は社会の正義に非ず、これではいけないと思った。ただ単純に会社の指示で動くようでは得意先や、社会に迷惑をかけることもある、ということを身もって体験した。
苦労2 仕事の矢面に出ずっぱり
次の災難は組織変更による人事異動と女子事務員の配属だった。四国営業部のは四国支店、中四国支店になったり、特に後半のM支店長は同行したくないと思う上司だった。高知営業所にも女子事務員が配属になったがこれが後に大問題となる。経費節減も若手にのみ厳しくなり、30歳前はゴルフ禁止、得意先の会食は2次会禁止。当時の私は県内の市場トップ4軒の担当で計画数字も一番大きかったが販促費は最小、これで私のやる気は縮小し、より一層得意先優先で行動するようになった。直属のN新所長には散々改善を申し入れたが何も変わらず。女子事務員も本性が出てきて業務に支障が出てきたが上司は何も指導しない。それでも私は大阪、本社の会議や全国学会、講演会と出かけて「四国はお前しかおらんのか?」と言われるほど、仕事の矢面に出ずっぱりの日々だった。