くすり屋さん

くすり屋さん 四国奮闘編 第1章 初めての四国上陸

くすり屋さん 四国奮闘編

いざ徳島へ

83年6月、赴任地へ向かった。大阪支社に挨拶に行った新入社員は10数名。支社は御堂筋にあり夜の歓迎会はうどんすきの「美々卯」本店へ。その時は価値がわからなかったが正に老舗の名店だったと後から知った。翌日は北陸や中国、四国へ新人達はそれぞれの出張所へ向かった。私の赴任地は徳島出張所。大阪の港から高速艇で小松島港に着いたら凸凹の先輩、上司が迎えに来てくれていた。これがI所長とA先輩であった。

「新入社員の赴任地は西日本出身ならそのあたり、東日本出身もその辺り、そんなに遠くに行かない、ワシは大阪近辺を希望したから大丈夫や」と同期の関西人がしたり顔で言っていたがそいつは九州に赴任した。西日本出身も容赦なく北海道へ行った。そんなに会社は甘くない、新人の希望に沿うわけはない。その年の新入社員50名のうち40名が医薬営業部門として全国へ散った。半年間は研修期間中なので一旦は現地研修となり、8月からはまた2カ月研修所で缶詰、合宿生活となる予定だった。

さて徳島だ。四国自体、私にとって初めての上陸となった。新人の配属はSと私の2人。Sは徳島県担当、私は香川県の担当であった。赴任地を初めて聞いたとき「香川県?住むのは高松市か、はて?」と大した感動もなかったが母親に連絡すると「あんた何したかね?」と責めるような反応だった。高松はそんな田舎とも、悪い印象もない。私にとってはどこでも良かったし、知らない土地への好奇心の方が強かった。徳島初日は厚生年金会館での会議に出たり夜は歓迎会だったり。私は飲めるだけにカポカポ酒を飲んで頼もしく思われたそうだ。同期のSはすぐに赤くなって先輩につがれる酒を断っていた。

今年の新入社員は宇宙人?

2次会はカラオケスナックへ行くのが当時のお決まりコース。まだ8トラックとかで紙の歌詞しかないので新人が歌うには度胸がいる。「歌え」と先輩から言われるからマッチやトシちゃんをサラリと歌ったから先輩、上司はもちろん、Sもびっくり。福岡でスナックは行っていたし入社前の選挙のアルバイトではタダ酒にタダカラオケで慣れていたから何でもない。その晩から「やはり今年の新入社員は宇宙人だ」ということになった。当時は徳島担当が4人、高松担当が4人、徳島出張所に女性事務員が1人で総勢9人の所帯だった。

徳島市内に泊まって翌日は高松市へ。四国で一番大きな都市は松山市であったが官庁、国の出先機関がある高松市の方が四国の中心だという評判だった。以前住んでいた福岡市よりはこじんまりした印象だった。しかし、いきなり会社の厳しい洗礼を受けた。あらかじめ決めてあったアパートに行くと「かよ荘」という木造2階建アパートは学生時代より古く狭い部屋であった。6畳+3畳の2K。和式便器には「Toyotoki」の文字が読めた。TOTOになる前の年代もの。「まあこんなものか」と割り切ろうと思ったが、なんと1年前の先輩は4階の鉄筋アパートで2LDK。その時の上司のごり押しで「他に物件が無いから」と大阪支店の業務に言い張って決めたらしい。新人には不相応だった分、私は割を食って間取り、値段について支店業務が厳しく介入してここに決まったと聞いた。やれやれ…。

84年秋の国鉄宇高連絡船
今も変わらない高松市瓦町
90年1月の徳島駅

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください