定年まで医療用医薬品の営業部門にいた。大卒の新入社員として1983年から2020年まで37年間いたことになる。九州の文系大学を出て化学会社に入社したら医薬営業部門の配属になった。特に職種や赴任地の希望がないままに高松、高知で9年間、横浜で8年間営業担当者だった。その後はスタッフ部門に入り、札幌、仙台、福岡、東京と転勤があったが面白い会社人生だったと思う。そろそろ会社の体験談を残しておくことにした。
就職活動
話は入社前、1982年の夏にさかのぼる。当時、大学4年生の就職活動は8月から解禁となっていた。学生時代は福岡で放送関連のクラブ活動のご縁で広告代理店のアルバイトをしていた。大手の電機メーカーのお抱え会社だったので「就職先に困ったらいつでも来い」と言われていた。大手電機メーカーの家電広告部門の部長さんからも可愛がられていたので「困ったら相談に来い」ということであった。地元山口県の自動車ディーラーの会社説明会にも出てみたが「いつでも遊びに来て」と言われたので気楽に夏休みに寄ってみた。そこで「本当に来たのか、君はここでは勿体ない。地元にいなきゃいけないとか、どこも就職出来なかった者が来るところだ。やりたい事があればその会社に挑戦しなさい」と言われた。
8月に東京に行って何社か広告代理店に行ってみた。中堅の広告代理店と福岡でアルバイトしていた会社の本社にも挨拶に行った。中堅の会社では九州の大学、というだけで不興だった。何社か回って、たまたま一緒になった他の学生とも情報交換をした。2流大学でも関東にあれば東京の就職は有利だと知らされた。さてどうしたものかとお盆に帰省したら父からNという会社を受けんか?と言われた。父も祖父も地元のN社工場に勤務したのだが、その本社への入社を進められたので履歴書を父に渡しておいた。盆明け、N社の福岡支店から連絡があり面接に来るように言われた。
N社の福岡支店に行くと総務のT氏が面接してくれた。父とはA工場で野球と酒の仲間だったとか。9月に大阪支店で筆記試験があるから行くように言われた。書類審査、一次面接は合格したようだ。大阪では筆記試験があり2次面接を本社でおこなって最終結果を待つことになった。しかしN社のことはA工場の事しか知らない。私は入社したらどんな仕事をするのかも聞かずに最終面接までいった。化学会社に文系学生が入って出来ることは営業や事務関係だが何とかなるだろう、くらいの気楽な気持ちで人事部長と面接した。今も覚えているが「君の履歴書、自分の特徴は最高のアピールだな」とコワモテ部長に褒められた。
緊張しない動じない面接ぶり、アナウンスクラブの活動成果もあってか9月末には就職の内定をもらったように思う。N社に就職することを実家に連絡したり大学の学生課に報告したりでその当時はあまり覚えていない。両親が喜んだこと、自身も安堵したことは確かだ。他にどこに行きたいとか何が出来るか、何がしたいかという希望も特技もないが「来ていいよ、来なさい」と言われればご縁だから「はい、行きます、やります」と返事をしてしまうのが私だ。それが会社人としてずっと続く私の人生スタイルだったように思う。