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8年住んだ二俣川
田舎育ちの私が横浜市民になったのは92年の6月。直属上司のK所長と住居探しをして、旭区の二俣川を推薦されてそこに決めた。
横浜市内と言えども、かなり西の外れ、なだらかな丘陵地帯であった。住んだマンションも坂の上にあり古代遺跡跡の碑もあった。その丘の下は東海道新幹線のトンネルがあったがあまり騒音、振動は気にはならなかった。
マンションの北側は相鉄線が見下ろせ、保土ヶ谷バイパスも見える。6年目に近くのマンションへ引っ越したが二俣川には92年からミレニアムの2000年6月まで住んだことになる。
マンションは相鉄線二俣川駅から西友ストアもすぐで便利だった。横浜まで電車なら15分という近さ。田舎者の自覚がある私には二俣川のような都会の田舎で良かったと思う。
小学校、幼稚園も近いので子供たちは「横浜育ち」と思っているだろう。南の丘をさらに登ると万騎が原という鎌倉時代の古戦場が地名になっていた。さらに大池公園があって横浜市民の憩いの場であった。ここは広い、すぐ名門戸塚カントリーゴルフ倶楽部に繋がる公園だった。当時の私は32歳、まだゴルフもよく行っていたが戸塚CCにはご縁がなかった。
ヨコハマドライブ
仕事は私有車を使用していたが四国時代はギアチェンジするマニュアル車に乗っていた。
運転する歓びをギアチェンジで楽しんだものだが横浜市内の大渋滞には大いに閉口した。クラッチを踏んだり離したり、坂道も多いので半クラも駆使する。オートマが普通となった今では死後であろう。
坂道発進がつらいのですぐにトヨタのカムリからホンダのアコードに買い替えた。高知ナンバーから憧れの横浜ナンバーへ。オートマになったから渋滞も坂道も苦にならなくなった。
横浜新道、保土ヶ谷バイパス、第三京浜、首都高速、横浜横須賀道路(通称ヨコヨコ)を走り回る。空いていればドライブは爽快、痛快であった。
横浜の名所と言えば山下公園と横浜マリンタワー。89年に完成した横浜ベイブリッジ、ここらをドライブすることは横浜人としての醍醐味だ。
夜の工業地帯、イルミネーション、正に日本の中心に住んでいること、仕事をしていることは誇りに思えたものだ。考えてみれば私とて東に憧れていたのだ。
出来ることなら東京、横浜で挑戦したみたい気持ちはあった。しかし持ち前の気弱な部分と現実的な考えが出てきて「願っても叶わない夢だ」とあきらめていた。
ご縁とはありがたいものだ。3年もすれば横浜の所員も本社メンバーも「四国の金太郎」から「横浜の若手リーダー」、K横浜支店長の懐刀、とまで言われるようになった。不思議なものだが「願えば叶う」というのはこの頃から思うようになった。
横浜市内を走り回った
横浜市内は新横浜から南は金沢区までよく仕事も遊びでも走り回った。やがて横浜営業所は4つのチームから2つのグループとなり私は第2グループ長、メンバーは私を入れて8人。担当エリアはこれまでの横浜市に横須賀市、三浦市が加わった。卸さん、得意先の同行、イベントの開催がますます増えた。
リアス式海岸の三浦半島、丘あり谷あり、横須賀軍港などの良港もあって正に風光明媚な地域を任されて幸せな気分だった。