門司、もじと読むが由来は「もんし」という海の関所だったという。向かいの下関が馬関、「ばかん」と呼んでいたものとつながるだろう。その本州と九州をつなぐ鉄道の関門トンネル開通は太平洋戦争中の昭和17年(1942年)だという。大工事であったのは間違いない。私が小学校の頃はすでに関門国道トンネル(1958年開通)も出来ていたが門司、小倉に行くのは電車でもバスでも楽しみだった。電車に乗ればトンネルで蛍光灯を数えたが早すぎて多すぎて最後まで数えたかどうか。電車は交流と直流の変わる場所が門司駅前にあるので電車の灯りが切り替えで一瞬消える。夜だとびっくりしたものだ。
トンネルが出来る前は門司港へ渡し舟、鉄道連絡船が下関から出ていたことになる。人より物資の輸送は難儀なことであったろう。鉄道と道路のトンネルは軍部にとっては急務であり、国民にとっても悲願であったことだろう。しかしトンネルが出来ると門司港駅は取り残されてしまい寂れるばかり。これがタイムカプセルのようになって渡船場、かつての重厚な駅舎が残されて鉄道遺産となった。何が幸いするかわからない、今の門司駅界隈は通過点となり門司港駅付近はわざわざ行きたくなる立派な観光地となった。
1974年頃まで筑豊本線や日田彦山線では蒸気機関車が走っていた。デゴイチや96型、D60 型が最後まで活躍していたので門司には大きな機関区があった。関門トンネルを抜けて門司駅に着く、そのまま小倉に向かう途中に機関区が見えた。大きなラウンドハウス、その付近で何両もの蒸気機関車が煙を吐いていた。盛んな機関区の中にディーゼル機関車、電気機関車が混じっていたのを複雑な気分で眺めていた。小学生の私でも時代の移り変わり、栄枯盛衰の現実を見て、この世のはかなさを感じたものだ。
関門橋が完成したのは1973年、これは下関の壇ノ浦、門司港の和布刈(めかり)を結んで古来の名所が再発見されたように思う。壇ノ浦の古戦場、門司港からの景色は絶景である。関門海峡を挟んで源平合戦があったり、攘夷戦争があったり、今でも交通の要所であることは変わらない。早い潮流は早鞆の瀬戸ともいうが眺めていて飽きない。関門海峡は日本三大急潮の一つである(他は来島海峡、鳴門海峡とすべて瀬戸内)。毎日の急潮に対し逆に向かう船舶の奮闘ぶりは見ていて力が入る。