昭和の前半生まれの人達は兄弟が多かったと聞く。私の父も七人兄弟、母もそうだった。自然私にとって叔父さん叔母さんが沢山、それぞれ結婚しているから倍の人数がいたことになる。その子供が2人、3人といるので私の親戚となる「いとこ」も父、母の系列でそれぞれ20人を超える。ただし年齢が5歳以上の年配が半分いた。そうなると覚えていない「いとこ」も多い。私の子供の頃、父の実家での盆正月、結婚式、葬式などはいつも大人数だった。それは母の実家でも同じ。私はおじさん、おばさんに小学生の頃までに充分可愛がられたと思う。成長後も親戚方の期待にはまあまあ応えたと思うがどうだろうか?いとこ同士、という付き合いも親同士が仲良くなくてはやりにくいものだ。あとから知ったが世間一般では母方の実家とその親戚が子供にとっては縁が深いそうだ。母の実家だと母が穏やかにしているからだろうか。
まず父の実家のこと。父は次男だったので5歳の頃、今の家に養子に出た。成人する頃に長男が早逝したので実家に行けば長男扱いとなるというややこしいことになった。父には姉が2人いたのでその分?叔母さんから私はよく可愛がられた。その子供は私には年上過ぎてご縁は薄かった。父には妹が2人いてその子供達とはよく遊んだ。一人っ子のJは2つ年上だったが家に行くと玩具も漫画本も沢山あって楽しかった。叔母さんは口うるさかったが持つべきは金持ちの親戚だと思ったものだ。特に「おそ松くん」は全巻がそろっていたので読みふけった。
昭和30年から40年代。父の実家、母の実家の盆正月は一族が集合する。大人がそれぞれ20人ずつ、子供も同数くらい。それが集まれる座敷があったということだ。大したものだと思う。叔父さん叔母さん、「いとこ」の中でうまく立ち回れば旨い食事にありつける。小遣いももらえる。私はよそいきの服を着ていそいそと出かけた。居並ぶ大人、いとこの中で何かと酒の肴になっていじられたりほめられたりするのは何でもなかった。年下のいとことも上手く遊んだと思う。あとから聞いたら年下の「いとこ」の世話をよくしてくれたと親戚の叔母さん達から感謝の言葉もあったらしい。私は末っ子だったので弟、妹はいない。その分勝手がわからず、優しくしたのかもしれない。母方のおじさん達には野球を教えてもらったり海でキャンプしたりで楽しい体験をさせてもらった。父母の兄弟は皆、穏やかな人ばかりだった。
「いこと」同士ではI家との付き合いが永い。母方の長女であり私の母より10歳も年長だがその子供達とはよく遊んだ。私にとってMさんは3つ年上、野球が旨くてカッコよかった。その妹もMさんだが私は中学、高校まで交流があった。彼女はやがて就職、結婚されて遠くに行かれたが、なんといつのまにか寿司屋のおかみさんになっていた。私は社会人となって仕事がら全国を出張するものだからEという店に初めて寄ってみたのは90年代。彼女もそのご主人にも歓待されたのは言うまでもない。「親戚一同の中で店に来たのはあんただけ」と言われた。その後も数年に一度、店に寄って飲んだものだが近年、ご主人の具合が悪くなって閉店となった。