勉強という言葉は今見ても強制的で良い気分ではない。幸いに親から「勉強しろ」と口うるさく言われたことはない。言われる前に宿題は済ませる、テストもそこそこの点数は取れている、通信簿の成績表も小学校時代は中の上だった。これぐらいで良いと思っていたわけでもないが周りの同級生はもっと私が優秀だと思い込んでいたことが苦痛だった。「あんたらとそんなに変わらんよ」と言っても友人たちは本気にしない。秀才グループと遊ぶ時、私は遠慮気味にしたものだがらかえって礼儀正しい?と思われて丁重にもてなしてもらった。つまりは同レベルと認めてもらっていたことには恐縮したものだ。そもそも小学校2年生の時に児童委員(クラス代表)の投票で選ばれたことから私の人生の半分は決まった。ここから人気と学業のギャップに私は悩んだがそのまま中学3年まで委員長役が多かったので、イメージ先行の人生が続いた。素直に勉強すればよいのに「まあ、いいかこのくらいで」という気分で小学生時代を過ごした。
塾というのは田舎でも習い事と合わせて盛んな時代だった。姉、兄は近所の習字教室に通った。気が付いたら止めていたので私にはまわってこなかった。小学3年の時に秀才のOがそろばん塾に通っていたので1年半通った。何級か試験も受けたがそろばんの掛け算、割り算になるとついていけずやめた。でも長らく暗算を頭の中で素早く計算することができて、そろばんの効用を味わったものだ。そろばんは頭の回転、想像力の増進に有効であろう。今でもそろばん塾の先生宅で「ごわさんでねがいましては~」なんて思い出すと懐かしく思う。静粛な部屋でパチパチそろばんを弾く音だけが響いていた。
塾ではないが私塾的に親同士が話して教師を招くという不思議な習い事に私は通った。女子2人と一緒にというのは照れくさくて友人にも話したことがない。小学5年から中学2年の約3年間、高校の英語教師を招いて英語を習った。その割に英語は今でも上手く話せない。なんとか読み、和訳のコツは学んだし英語を苦手に思ったことはなかった。中学校の試験対策ではテキストを読む、訳す、宿題の繰り返しだった。母の友人宅なので終わればおやつが出た。毎回豪華なお菓子やケーキだった。教師も引退前のおばさま、残りの二人は女子だけに私は肩身の狭い思いをした。なんだか秘密の塾通いのようで段々気が重くなった。ようやく中2の秋、母にお願いして止めてもらった。英語には親しんだが外交官になるほど?の英語力はつかなかった。学習は学ぶ、習うこと、これは真似るから始まると知ったのはずっと後のこと。
私の通信簿、「中の上」は小学校、中学校と続いた。担任教師のコメントでは「人望がある、リーダーシップをとっている、世話好き」などの記述があり、親は安心していたようだ。小学校時代から私は宿題を忘れない、時間を守る、他の児童の模範となる、良い子であることについては優秀だったように思う。これって社会人になってからも「営業成績はそこそこ」に繋がるのであった。