くすり屋さん

くすり屋さん ヨコハマ時代前半② 横浜でのくすり屋さんスタート

都会は怖いところじゃ

旭区二俣川という横浜市の西側に住んで営業所は新横浜。ここは横浜市の北部、担当先は中区、南区、金沢区と横浜市の南側だった。

この三角点の距離は100キロ近くになるがこれを回るために高速道路を使うし病院の駐車場も有料なので毎日2~3千円かかる。四国で有料道路を使う営業はなかった。

病院の駐車場も無料が多かった。財布に金がなくても仕事ができたが、横浜ではそうはいかない。毎日現金が飛んでいく。ランチも高い、煙草代もかかる。

しかも横浜市内の道路は工事だらけで朝夕どころか昼間も大渋滞。噂には聞いていたがこれではアポイントの時間に間に合わない、というヒヤヒヤする毎日が始まった。

「都会は怖いところじゃ」と思った。

引き継ぎ

92年6月に行った時、横浜市立大学附属病院は金沢区福浦に出来たばかりだった。元々の病院は南区浦舟にあったがそこは改築のため縮小していたので2軒で以前の1軒の病院の規模になったとも聞く。2軒が独立した病院となるのは7年後である。

四国時代同様に横浜でもN社が強かったのは泌尿器、婦人科、耳鼻科。さらに消化器科、血液科、呼吸器科である。

四国ではベテラン顔していた私も都会にくれば新人と同じ、太った体を小さくして引継ぎを受けた。四国から来ました、と言えば、ほーっと感心される。その先に名前や出身はという話になれば意外に横浜の医師でも実家が四国だったり中国地方だったりする。または奥さんが西日本出身と聞いて親近感を覚えたものだ。

都会の田舎

横浜で半年仕事していると大都会だ、という印象は「都会の田舎だ」に変わった。住んでいる二俣川が田舎であること、営業所メンバーも四国時代と同じような仕事内容だし、聞けば関東地方の田舎出身者ばかりだった。

東京出身の同期のT氏は「東京人は東京、横浜しか見ない、他は皆同じ田舎だ」と言い切った。それも本心だろうが、T氏本人は東京の西部、国分寺出身だ。ここも92年当時は武蔵野原野が残る?田舎だった。見栄っ張りな東京人なのだろう。

横浜は東京人と転勤族の田舎もんのまぜこぜだった。まだ他社との交流も盛んだった時代なので田舎もんの私、四国からの転勤者でも歓迎してもらった。明るく元気に飲んで騒いでいれば田舎でも横浜でも同じ、仕事は変わらない、ということで私は安堵した。

都会は怖いところじゃ2

新しい病院横浜営業所はめきめきと実績を上げた。個性派を集めて大病院に集中して活動するということはスピード感が違った。

その分、所内や会議はドライな雰囲気だった。皆が個人プレイ、なぜか月末には数字があがってくる。ベテランN氏、K所長の名人芸は仕事の中身を教えてくれない。結果がすべてなのだ。

飲み会は1次会の1時間ちょっとでバーッと飲んで食べて解散。皆、家が遠いのとそれぞれの都合で2次会に行くとか、麻雀に行く者もいて個人の勝手だった。

四国時代は、会議、宴会、2次会は団体行動だった。会議で「それはなんで?」などと私が聞くと会議後、同期のT氏からは「会議でそんなこと聞いちゃだめだ、何も知らないくせに」と注意を受けた。

どうも昼間は表面的な付き合いのみ、ということらしい。唖然とした。

やはり「都会は怖いところじゃ」。

95年の新横浜駅の0系こだま号95年の新横浜駅の0系こだま号
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新横浜駅 横浜港線路の俯瞰

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