鹿児島県から熊本県へつながる、霧島越えの肥薩線がある。明治の鉄道は海岸線よりもわざと山中を建設したという。なぜなら海岸線は敵国船がやってきて艦砲射撃を受けてしまうから。さらに鉄道を利用して敵軍が攻めてくる、などという理由もあったらしい。軍部中心の明治政府は金もないのに国防のため費用のかかる山岳路線を人海戦術で、まさに手掘りのようにして山を削り、橋を架けてトンネルを開通させた。
例えば本州なら東海道線より中央線の計画が優先されていたという。九州の肥薩線もかつての鹿児島本線だ。山越えにスイッチバック、ループ線を組み合わせ長大なトンネルを掘った。開通したら蒸気機関車は登れない、後退する事故や乗務員の死亡事故もあった苦しい路線になった。やがて海岸線に鹿児島本線が開通したが、それでも肥薩線の山越えで運ぶ旅客、貨物は多かったのだ。昭和40年代までここの鉄道員の苦労は想像を絶する。ただ定時輸送の使命感に燃えていたのだろうか。
沿線には100年を超える駅舎が名物になっている。まるでタイムカプセルのようだ。観光列車である「はやとの風」「いさぶろう」は名所駅に止まるしループ線の見どころでは停車もしてくれる。乗客は記念撮影に忙しい。なかなか演出も上手いと思った。
肥薩線の吉松駅は少し北上すると熊本県、東のえびの高原線(旧吉都線)は宮崎県につながるので今も昔も交通の重要地点である。蒸気機関車時代は大きな機関区があり最後まで多くの蒸気機関車が活躍していた。霧島越えのデゴイチや鹿児島、都城方面に行くシゴナナ。ローカル線や入換用に8620型などが目に浮かぶ。しかし私は蒸気機関車時代に行っていない。近年、吉松駅に行ってみると駅前に懐かしいC55型が良い状態で保存されていた。嬉しいものだ。44年前に都城駅で見た機関車が現役時代のように整備されていた。油のにおいがしたのですぐに74年に戻る気分だった。