昭和41年(1966)厚狭小学校に入学、自宅の山上から1.6キロ、子供の足で30分かかる通学路。つらつらと思い出してみよう。
朝、家を出ると細い山道を下る。朝は集団登校だから姉、兄、近所の子が山下で待っていた。右には小さな蓮池があり左は広大な田んぼが広がる。登校路は東へ、山裾の町道をしばらく歩く。あの頃は未舗装の砂利道で雨が降れば水たまりだらけ、夜は途中、電柱についた電灯が一つあるだけで真っ暗な世界。登校路は小川のそばを歩く、当時は草ぼうぼう、日暮れ後の暗い中、よく落ちなかったものだ。
妙徳寺、八幡惣社の下まで来ると少し日も当たるし明るくなる。日陰は冬の朝なら水たまりが凍ったままだし、雪が積もればいつまでも残っていた。左に変電所が見えて少し坂を上る。ここにも池があった。この坂は歩くのに大したことはないが自転車ではきつい。大人でも自転車を降りて押して歩くような坂である。ようやく野中の集落に入る。
ここらは武家屋敷街で藁ぶき屋根の家もあった。土塀があって大きなお屋敷が続く。そこを抜けると再び田んぼが広がる。けれどここは小川2本に挟まれた低い土地で大雨のたびに道路が水に浸かる。5センチくらいで危険でなければ長くつで水の中を歩いた。やがて舗装されたので小川が溢れても歩きやすくなった。登校路の東側には遠いけれど山陽本線があるので電車がくれば見える。タタン、タタンと線路の音がする。時には蒸気機関車が長い貨物を引いて走る。上り列車なら煙をモクモク吐いてドラフト音が響いていた。の中を抜けると殿町に入る。街角に小さな駄菓子屋があり、いつもおじいさんが店番をしていた。
殿町は正に厚狭毛利氏の居館があった地区で恐らくその周りは重臣、家臣が住んでいたことだろう。私の友人知人も多い。ここまでくれば朝の通勤通学で人が行き交う。日本化薬の殿町社宅もあってにぎやかであった。社宅は一戸建てが立ち並んでいた。重役さんの家はさすがに大きな社宅であった。社宅内の空き地などで私もよく遊んだ。やがて山陽本線の踏切が見えてくる。道路の両側には長屋のように2階の古い家が並んでいた。後から知ったが借家で借人ばかりが住んでいた。文房具屋が1軒あった。
山陽本線の踏切は時には長く遮断機が下りていた。朝は上り下り電車がより多い時間帯である。カンカン、カンカン、いつまでも来ない時は左から蒸気機関車の重い貨物列車がやって来る時だった。他にも東京や大阪からの寝台特急電車、電車特急や季節の臨時列車、修学旅行電車などを見たりした時は得をした感じだった。踏切を渡ると厚狭小学校だ。明治6年(1873)開校の歴史ある小学校の正門を通って、やれやれと到着するのであった。ここに4年半通ったことになる。校門前に駄菓子屋が1軒あった。他に店はない。ここは長く店を続けていたのでよく利用した。旧校舎への登下校の風景、四季のうつろいは忘れられないものだ。