私の入学した小学校は木造3階建てだった。それが3棟もあり真ん中には講堂があった。児童数は当時約千人。正門があった南側、私はそこを利用した。北口は街中の児童が図書館横を通って登下校していた。東側の校庭にも入口があった。朝はまず集団登校ということで誘い合って待ち合わせながら登校する。黄色い帽子をかぶっているから遠目には黄色い塊かヒヨコが歩いているように見えたことだろう。小一時間かけて学校に着くと下駄箱でガヤガヤとなる。教室は1年生が1階だった。私の担任はM先生。カマキリのイメージがある。当時は女性の教師が多かった。男性は教頭か校長くらい。6年の担任は男性のB先生だったが音楽は別の女性先生がオルガンを弾いてくれた。
新入生のクラス分け、これはかなり運命的だと思うのは私だけだろうか。その後のそれぞれの人生、あいつが、あの女子があんな大人になったというのはほぼ納得してしまう。小学校1年の時の印象で多分、大人や教師はみな予想できているのだ。残酷な話だが例外は一割程度ではないか。新入生の席順は初め、あいうえお順だった。だから私の前、後ろの席の男子、女子はよく覚えている。隣の女子はNでいきなり「私たち結婚しようや」なんて言われて困った。ほぼそのメンバーが6年間一緒、中学、高校もその小学校時代からの仲間が主流の集団だった。中学になれば他の小学校から、高校となればもっと広い地域の中学校からの合流もあったがそれらは亜流でしかなかった。実に一八年間不思議な集団の中に私はいた。今思えば幼稚園の頃からの集団だ。小さな町の同級生集団にいて私はそれなりに活躍した。
2年生になると児童委員になったことは私の運命を変えた、というのは以前に述べた。自分が望んだ役割ではない、というのはこの後の私の人生にいつもつきまとう。一種の責任逃れかもしれないが、辛いときはそう考えて耐えてきたものだ。やれば大体できるだろう、というのは中学、高校になってからのこと。教師や級友が「君はやれる、やってよ」というから役割を受けてこなしてきた。それぞれを無難に、周りの期待に応えてきたので、私も達成感を味わってきた。自信を持つとか落ち着いて行動なんてのは天性のものより経験の多さだと思う。いい加減にやっていては身に付かないが、丁寧に、真面目に向き合えば大人は教えてくれるし、周りの仲間も協力してくれる。この成功体験を重ねることが普遍的なものなんだろうと思う。まず自分自身から行動する、これが私の基本になった。
さて私にとっても給食時間というものは楽しかった。アルマイトの食器を見るだけで唾液がでる。給食当番となって温食のズンドウ鍋を運ぶことは重かったが冬は熱くて美味しかった。コッペパンは飽きてしまうがマーガリンつけて牛乳で流し込んだ。給食のカレーシチューは独特なものであれは家庭では出せない味だ。当時も大人気で早いもの勝ちでおかわりできたが私は1番になるのは無理だった。そこそこに早く、でもちゃっかりおかわりに間に合うタイミング、これを私は外したことはない。