みちのくよもやま話

みちのくよもやま話~文学編

東北の作家、歴史の本はよく読んだ。主なものを挙げてみる。

~文学編~

青森

太宰治は気になる作家であった。著作、生家、津軽を知ると何やら共感するところもある。伝説の英雄?津軽為信の伝記も読んでみたいものだ。

2005年太宰治の生家、斜陽館

岩手

宮沢賢治は中学の頃「アメニモマケズ」の詩に感動した。幾つかの懐かしい童話が賢治作と知った。石川啄木の人生も波乱だが彼の場合、やや自業自得の部分もある。しかし二人とも結核で早くに亡くなったのは惜しい。ほぼ同時代に正岡子規、夏目漱石、森鴎外などの有名文人もいる。

南部氏は甲斐の国の南部にいた武田氏が鎌倉幕府の命で所領にしたというが本当だろうか?その割には八戸方面に上陸?して、やりたい放題の話しも伝わっている。正式な辞令なら堂々と陸路で行って治めればいいのにと怪しんでしまう。下北、津軽地方の住民にとっては単なる侵略者集団だったのではないか。

炎立つ」高橋克彦著は東北人なら?読むべきだろう。前九年の役の安倍氏に続き、後三年の役の清原氏も滅亡。源氏と平家の争いもこの頃からあった。ずるい朝廷の駆け引きもあった。そして平泉の藤原三代の栄光に繋がる。近年の「義経になった男」は重い内容だった。つまりは、藤原軍は民を助けるために鎌倉軍にわざと負けた、というものだから。
松尾芭蕉、中学の頃に習った「兵どもが夢の跡」、は平泉の高舘、義経最後の場所で読まれた句だったと知る。現地に行ってなるほど、と納得した。

2004年盛岡市内の宮沢賢治像
2007年盛岡市内の啄木新婚の家
南部氏の盛岡城復元CG 別名不来方城
平泉の中尊寺金色堂

秋田

菅江真澄の記事、絵画は当時の道具や風習、景色を生々しく伝えてくれる。本人の紀行文、日記は感想や感動が記載されていないのが惜しいが、実に不思議な人だ。確か美濃あたりの出身の放浪作家?だった。北海道、青森を巡って最後は秋田の佐竹氏に保護されて領内で亡くなった。

その佐竹氏の戦国時代から江戸時代の武将伝もまた面白い。関が原の戦でどっちつかずの態度をしたので水戸から秋田へ転封となった。その時に美人をごっそり秋田へ連れて行った?という伝説があり「水戸の不美人」の評判を作った人、ということになる。日本三大不美人の町なんて現地の市民には迷惑な話だ。

菅江真澄ゆかり

宮城

伊達政宗の関連本はよく読んだ。最後の奥州代表の英雄?かもしれない。伊達騒動の「樅の木は残った」は難しい内容だ。NHK大河ドラマも再度レンタルビデオで見たが面白かった。平幹二郎、北大路欣也もよいが栗原小巻、吉永小百合の若さ、美人に、うなるばかり。
宮城、山形、福島は「奥の細道」の現地である。松島、石巻、鳴子などに芭蕉の句碑がある。それを辿る趣味の人が多いのも理解できる。芭蕉の見た景色を体感できるのだ。

山形

藤沢周平の歴史物をよく読んだ。地元の庄内地区を舞台にした貧乏侍の話しが多い。記念館も出来た。映画化もたくさんあって、東北の重要な思い出のひとつだ。

鶴岡市藤沢周平記念館

福島

野口英世の伝記は小学校の頃から読んでいる。実際に猪苗代湖畔にくると厳しい自然に驚く。しかし本人は本当に立派な人だったかどうかは疑わしい、多借金、放蕩三昧、という言い伝えが多い。

戊辰戦争の悲劇はいたるところにある。会津と長州はいまだに険悪という。しかし当時、長州の本軍は新潟、長岡方面で苦戦し、会津戦線には間に合わなかった。それでも会津が長州を恨むのは戦後処理にある。死人に情けをかけなかった、武士道にあるまじき行為があった。さらに追い討ちのように、町ぐるみで下北方面へ移住させたこと。武士同士の戦に一般市民を巻き込んだ事件だった。そんな事実を知れば知るほどに戦争の本質とは実に惨いものだと思う。これでは、まだまだ和解には時間が必要だろう。

会津若松市内の野口英世像

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