ほぼ有名な城郭、城址は訪問した。戦国時代の山城もよく踏破した。東北は関東風の山城、土塁城が多い。石垣があるのは京、大阪とのつながりの強い大名である。津軽氏、南部氏、伊達氏など。仙台の雀踊りは城の完成祝いに大阪商人が即興で踊ったのが始まりとされているくらい。会津若松城も信長に寵愛された蒲生氏が整備している。以下に主な城巡りを紹介する。(2012年当時)
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印象深い城址
青森:弘前城址
弘前城…弘前は桜の季節がよい。石垣、堀割り、城門、三階櫓は見事。当初の5万石とは思えない広大な城郭。天守閣代わりの三階櫓(現存)にだまされてはいけない。完成当初は5層の大天守閣があったのだ。大した資金力、政治力がったということ。江戸時代後期には10万石になったが、無理をしたのは否めない。領民は苦しかったろう。まさに見栄っ張り、意地っ張り=じょっぱり、なのだろう。
さて津軽氏の元々は何だろう?南部氏を裏切った?いや地元の代表として侵略者の南部氏を追い出した英雄?今でも青森県内では津軽地域と南部地域で明らかに仲が悪い。気質が違う、スタートが違うので止むを得ない。
秋田:久保田城址、横手城址
秋田市内にある久保田城、横手市にある横手城…いずれも石垣はない、典型的な関東城そのまま。水戸から関ヶ原戦後に水戸から佐竹氏が移ってきた。戦う意思を見せないためなのか佐竹氏よ。しかし久保田城はなかなかの堅城かつ広大な平山城である。「佐竹の殿様が水戸から美人をみんな秋田に連れて行った、だから秋田には美人が多く水戸は…」
岩手:九戸城址、盛岡(不来方)城址
九戸城、盛岡城…南部氏の拠点。九戸の乱、結果の騙し打ちは惨い。古代よりアテルイ、安倍一族、藤原三代、義経の悲劇、と続く最後が九戸氏の滅亡か。生き残った伊達氏、南部氏、津軽氏に奥州の魂が続いたのだろうか?と考えさせられる。
盛岡城の石垣はよいが本丸が狭い、城門の防備が弱い。石高は永く10万石だったが津軽藩が10万石になったので?負けてならじ、と20万石に直した説もある。確かに南部藩は広大な土地だからそのくらいは、とも思うが米作に不適な土地柄。
津軽も南部も度々大飢饉にあった。多くの領民が亡くなったり逃亡したりの歴史を繰り返している。意地になっていたか。本当にそんな収穫があったかはどちらも怪しい。本丸跡には石川啄木の句碑がある。
宮城:青葉城址、白石城址
仙台城の別名、青葉城は天険を利用しているので60万石の居城にしては安上がり、その分、城下の町作りに励んだとか。領民も正宗公に感謝したことだろう。伊達政宗は仙台の前は北部の岩出山城主だった。徳川家康が縄張り?したか手伝ったかの伝説のある名城でもある。しかし海に遠いので海外にも野望がある正宗には気に入らなかったろう。その前は会津若松、元は米沢から出てきた正宗の心情はいかに。正宗の長男は四国の宇和島城主になった。東北の伊達魂は四国に残っている、というのも面白い。仙台も宇和島も幕末まで続く。
城址は広瀬川の崖上にある。難攻不落の要害の地でることは間違いない。古写真でみる大手門、三階櫓などは豪壮であるが石垣なども一部が本格的だが、経費削減か徳川幕府を遠慮してか縄張りの割に建築物は少ない。大手門は戦災で焼けたが、かの肥前のはずれにあった肥前名護屋城の大手門を移築した?写した?という伝説がある。
白石城は宮城蔵王の麓、という印象である。伊達家のナンバー2は片倉小十郎。伊達政宗の良い参謀役であった。関ヶ原戦後に真田幸村の娘を息子の嫁にしたのは偉い!城址は遠目にも三階櫓の見える小ぶりな城、という印象だがさにあらず。
三階櫓は立派ば大天守閣と言えるほど大きい。本城の青葉城に天守閣が無いのに異例の大きさである。しかも明治まで現存していた天守閣を忠実に木造で復元している。城郭建築では初めてのことらしい。大したものである。2000年以降は全国で城郭建築を歴史に忠実に木造で復元し始めたがその先駆けとなった建物、と思えばまた見方が違ってくる。
山形:霞城址、米沢城址
山形城、鶴岡城、米沢城…まず山形城は別名霞城。最上氏の栄枯盛衰は悲しい。鶴岡の酒井氏の移転を拒んだ領民も義民とそして美談となっている。しかし地元の藤沢周平さんの小説を読むと簡単な話ではないようだ。鶴岡=庄内藩は殿様よりも商人の本間様の方に人気があった。北前船の利益を領内に還元したから当然だろう。「本間様にはおよびもせぬがせめてなりたや殿様に~♪」
米沢藩の上杉氏も越後から会津120万石へ。関ヶ原合戦後は敗軍として米沢30万石になった。越後以来の名門、謙信公の威光を守り続けたというのは立派か。こう考えると山形県は苦労の多い城下町が多い。天童藩は織田家、信長の直系ではないが名門である。
東北の関ヶ原と言われた長谷堂城は登っておくべきだろう。きつい山城だが本丸からは霞城が見える位置である。あと一歩、というところで関ヶ原の敗報が来た。直江兼継の悔しさはいかばかりだったか。
霞城の本丸に天守閣はなかった。ここは50万石規模で作った巨大な城だが、最上氏改易後は5~10万石程度の大名ばかりとなり、城郭の維持ができなくなった。荒廃するばかりの城内もまた寂しかったろう。荒城の月は江戸時代からか…。
土塁のみの簡素なお城。過去の栄光やいかに。上杉鷹山という名君も出たが貧乏な藩だからこその人物。幕末まで三階櫓は残っていたという古写真がある。
福島:鶴ヶ城址、白河小峰城址、二本松城址、平城址
二本松城、白河小峰城、会津若松城…立派な石垣造りの城が多い。始めは西日本系の外様大名を入れて堅固な石垣城を作らせる。その後、転封させてそこへ東日本系の譜代大名を入れる、というのが徳川幕府のやり方だ。
白河の関は有名な割には近年まで、どこが正式な所在かはっきりしなかったらしい。2箇所の伝説があるが、まあ地元ではそんなものか。伝説の中のほうが美しい場合もある。
それぞれが戊辰戦争の激戦地だった。戦争でも同じ国民の争う内戦はよけいに悲惨である。会津は黒川城と言われた頃は芦名氏、伊達氏が戦っていたそうだ。その後、秀吉の指示で蒲生氏が治めた時に上方の漆塗り、桐の家具、木蝋の技術や近江商人、伊勢商人気質が入ったとか。今の商業、文化の基盤はその頃かららしいが、蒲生さんはきっとエライ人だったのだろう。
浜通りの城は中村城(相馬氏)に行った。思ったより広大な、しかも堅固な構えに驚く。さすがは「相馬の野馬追い」で勇壮な祭りが続いているわけだ。なかなか実戦的かつ関東武士の系譜を思わせるものがある。
いわき市には平(たいら)城がある。ヒラジロと読んで笑われる人もいた。ここらは譜代大名がいくつもの小藩に別れており、しかも数年で転封となるので殿様の伝統文化は少ない。幕末はここも戊辰戦争の戦禍に会い、落城した。