北海道鉄道漫遊記

北海道鉄道漫遊記 11

旭川駅を発車して宗谷本線を北上すると、比布(ぴっぷ)町に出る。面白い地名である。それからがいよいよ有名な塩狩峠である。今も25‰の坂道は気動車には厳しい。車ではなんでもない峠である。SL当時は、貨物はD51、客車はC55,C57の大活躍があった。客車にはD51の後押しがついて一気に峠を越えていた。冬の峠道は一層厳しかったことだろう。最近は2回ほど、C11が「SL塩狩号」で峠越えを再現してくれた。夏の黒煙でも、その重いドラフト音は充分に迫力があった。後押しはDLであったが、それは、いた仕方あるまい。でも2001年はヘッドマーク無し、旧客と粋なはからいであった。

2001.8/26「SL塩狩号」塩狩駅への進入

現在の塩狩駅とその周辺はとても綺麗に整備されている。三浦綾子ゆかりの遊歩道もあり、なかなか気持ち良い。すべての駅の周辺が自然公園、とはいかないだろうが、北海道らしい林間の散策は、誰でもステキだな~、と感じるはず。
峠を越えると平坦な名寄盆地である。士別、名寄と町あるが、名寄市でようやく宗谷本線の1/3弱である(本線は約280キロある、ようやく旭川―名寄で83キロ)。名寄は既に廃線となった名寄本線(名寄―遠軽138キロ)と深名線(しんめいせんと読む、以前、私も、ふかなせんと読んでいた…名寄―深川121キロ)の合流点でもあり、最果ての?交通の一大拠点であった。宗谷本線のD51型はここまでで、稚内までの貨物は9600型である。名寄本線、深名線も9600型であった。「冬のどんな豪雪でも列車はやってきた、気動車はだめでも蒸気機関車は必ずやってきた…」という伝説は、ここらのローカル線の事ではないだろうか?

名寄本線のSL撮影に来たのはS50:1970年3月、場所は下川と上興部(かみおこっぺ)。ここには有名な天北峠の難所がある。9600型の重連の苦闘は、伝説どころか、線路までなくなってしまった。廃線とは悲しいことだ。本線の廃線第1号であり、今も唯一かもしれない。上興部には補機用の転車台と給水塔があった。既にS50:1975年3月の補機はDLだったのは残念だったが、晴天の雪原を走る9600型が眩しかった。

1975.3/26名寄本線下川駅発車の9600貨物

現在の名寄駅も広大な敷地が空しい。駅前も寂しい限り。当時泊まった旅館はどこだろうか?さっぱりわからない。さっさと名寄を発って北上することにする。約1時間走ると音威子府(おといねっぷ)に着く。難読駅名の一つである。ここも天北線が分岐する駅であったが、これも廃線。しかしここは駅構内がまだ当時を思わせる雰囲気が残っている。

音威子府駅へ来たら「黒いそば」を食べないといけない。そば殻がたっぷり?入っているので黒っぽいのが特長で、口の中がざらざらする…というのはオーバーだが田舎そばの典型だと思う。食べたい駅そばのベスト10に入る…かもしれないほど、鉄道ファン、旅行好きの人々には有名である。冬の待ち合わせ、乗り継ぎの合間に一杯の駅そば。思い出に残るはずだ。ましてや音威子府の黒いそば…。

さあさあ、とうとう日本最北端の稚内駅に到着。手前の南稚内にかつては機関区があったが、今も転車台のみが残っていたのには驚いた。
昭和50年3月、南稚内から抜海方面に歩いて雪の丘から9600の牽く貨物列車を撮った。ここらはしっかりと峠がある。晴れれば利尻富士の見える名所である。撮影の合間に保線小屋で他のSLファンとともに暖をとった。小さなストーブに線路から拾ってきた石炭をくべて燃やしたものだ。暗く重い雲の垂れこんだ天気で、ブリザードが吹き荒れていた。
稚内駅には、ホームのはずれに、日本最北端の標識があって記念写真を撮るのに格好の場所である。よくぞここまできたものだ、とみんながみんな感激することだろう。

1975.3/30稚内機関区 9600のテンダーが見える

次回は今一度旭川を起点として南下しようと思う。富良野、帯広のお話。(2003.2/11)